・・・私はもういっそ殺してもらった方がましだと思う。それに、あんな年取った王さまが、あの若い美しい王女をお嫁にしようとなさるのだから、王女がおいたわしくてたまらない。殺されてしまえばそういうことも見ないですむから、ちょうど幸だ。」 こう言って・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・こんな暑い日にはいっそドテラでも着てみたら、どうかしら。かえって涼しいかも知れない。なにしろ暑い。――「芸術新聞」昭和十七年八月―― 太宰治 「炎天汗談」
・・・紙の買入れ方をしくじったとかで、かなりの欠損になり、夫も多額の借金を背負い、その後仕末のために、ぼんやり毎日、家を出て、夕方くたびれ切ったような姿で帰宅し、以前から無口のお方でありましたが、その頃からいっそう、むっつり押し黙って、そうして出・・・ 太宰治 「おさん」
・・・何も急く旅でもなしいっそ人力で五十三次も面白かろうと、トウトウそれと極ってからかれこれ一月の果を車の上、両親の膝の上にかわるがわる載せられて面白いやら可笑しいやらの旅をした事がある。惜しい事には歳が歳であったから見もし聞きもした場所も事実も・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・永代橋を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛く思われた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまいたいような気がした。 ああ、しかし、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上って遠く行く・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・太十は少時黙って居たが「いっそのこと殺しっちまあべと思ってよ」 ぶっきら棒にいった。「何よ」と対手はいった。然しそれが余り突然なので対手はいつものように揶揄って見たくなった。「まさか俺がこっちゃあるめえな」とすぐにつ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・けしからんことだと思いながらも、なお引っ越し先の模様を尋ねてみると、とうてい自分などの行って、一晩でも二晩でもやっかいになれそうな所ではないらしい。いっそここへ泊まるほうが楽だろうと思って、じゃあいたへやへ案内してくれと言うと、番頭はまたお・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・車は一足二足とまた進む。いっそ山下から返れといおうと思うたがそれもと思うて躊躇して居ると車は山を上ってしもうた。もう提灯も何も見えぬ。もう仕方がないとあきらめると、つめたい風が森の中から出て電気燈の光にまじって来るので、首巻を鼻までかけて見・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・母親は一太をつかまえて大人に相談するように、「ねえ一ちゃん。いっそ朝鮮のおじさんとこへでも行くかねえ。こういいめがふかなくちゃあやりきれないもん……ねえ」と談合した。一太はそのとき勇み立って、「ああ行こうよ、行こうよおっかちゃん・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・かように存じているうち、今日御位牌に御焼香いたす場合になり、とっさの間、感慨胸に迫り、いっそのこと武士を棄てようと決心いたした。お場所柄を顧みざるお咎めは甘んじて受ける。乱心などはいたさぬというのである。 権兵衛の答を光尚は聞いて、不快・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫