・・・ 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝を据えた。襖一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立たしいものにさせるのだった。叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・私は万一そうなったら、たとい死んでも死にきれない。いやいや、あの人は必ず、来る。私はこの間別れ際に、あの人の目を覗きこんだ時から、そう思わずにはいられなかった。あの人は私を怖がっている。私を憎み、私を蔑みながら、それでも猶私を怖がっている。・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・が、彼女は頬笑んだきり、子供のようにいやいやをしていた。「ふん、どうしても白状しない。誰の出迎いに行ったと尋いているんだが。……」 すると突然林大嬌は持っていた巻煙草に含芳を指さし、嘲るように何か言い放った。含芳は確かにはっとしたと・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・「わたくしは賤しいものでございまする。とうていあなた様のお弟子たちなどと御一しょにおることは出来ませぬ。」「いやいや、仏法の貴賤を分たぬのはたとえば猛火の大小好悪を焼き尽してしまうのと変りはない。……」 それから、――それから如・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・そんな工合に、目や胸を見たり、金色の髪の沢を見たりしていて、フレンチはほとんどどこへ何をしに、この車に乗って行くのかということをさえ忘れそうになっている。いやいやただ忘れそうになったと思うに過ぎない。なに、忘れるものか。実際は何もかもちゃん・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 一体昨夜お前を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが、いやいやそうでねえ、川へ落ちたか落されたかそれとも身を投げたか・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・「ほん、ほん、それでは、これじゃろうの。」 と片手の畚を動かすと、ひたひたと音がして、ひらりと腹を飜した魚の金色の鱗が光った。「見事な鯉ですね。」「いやいや、これは鮒じゃわい。さて鮒じゃがの……姉さんと連立たっせえた、こなた・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・可厭らしく凄く、不思議なる心持いまもするが、あるいは山男があま干にして貯えたるものならんも知れず、怪しからぬ事かな。いやいや、余り山男の風説をすると、天井から毛だらけなのをぶら下げずとも計り難し。この例本所の脚洗い屋敷にあり。東京なりとて油・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・なに行ったってえいさ。いやいや行かない 方がえい。ゆくまいというは道徳心の省作で、行きたい行きたいとするのは性欲の省作とでもいおうか。一方は行かない方がえいとはいうけれど、一方では行きたい行きたいの念がむらむらと抑え切れない。 もし・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・それで、もう私はたくさんだから……そういってお嬢さんにお願いしてみようかしらんと、乞食の子は一人胸のうちで想い煩っていましたが、いやいや、なんでこんな汚いふうをして、ほかの人々から平常乞食の子! 乞食の子! と、呼ばれているいるものを、なん・・・ 小川未明 「なくなった人形」
出典:青空文庫