・・・それは大いにそうだ。いや、それがほんとうかもしれん。僕もそんなことを感じていたような気がする」 酔った方の男はひどく相手の言ったことに感心したような語調で残っていたビールを一息に飲んでしまった。「そうだ。それであなたもなかなか窓の大・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・と顔は早くも淡紅を散らして、いやな父様だよ。と帯締めの打紐を解きつ結びつ。 綱雄といえば旅行先から、帰りがけにここへ立ち寄ると言ってよこしたが、お前はさぞ嬉しかろうなとからかい出す善平、またそのようなことを、もう私は存じませぬ、と光代は・・・ 川上眉山 「書記官」
さて、明治の御代もいや栄えて、あの時分はおもしろかったなどと、学校時代の事を語り合う事のできる紳士がたくさんできました。 落ち合うごとに、いろいろの話が出ます。何度となく繰り返されます。繰り返しても繰り返しても飽くを知・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・と、上田は冷ややかに笑います、鷹見は、「イヤ、あんな男に限って、女にかあいがられるものサ、女の言いなりほうだいになっていて、それでやはり男だから、チョイと突っ張ってみる、いわゆる張りだね、女はそういうふうな男を勝手にしたり、また勝手にさ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・『吉さんはきっとおかみさんを大事にするよ』と、女は女だけの鑑定をしてお常正直なるところを言えばお絹も同意し『そうらしいねエ』と、これもお世辞にあらず。『イヤこれは驚いた、そんなら早い話がお絹さんお常さんどちらでもよい、吉さんのと・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・「サアその先を……」と綿貫という背の低い、真黒の頬髭を生している紳士が言った。「そうだ! 上村君、それから?」と井山という眼のしょぼしょぼした頭髪の薄い、痩方の紳士が促した。「イヤ岡本君が見えたから急に行りにくくなったハハハハ」・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・「馬鹿!」「何んで?」「大馬鹿!」「君よりは少しばかり多智な積りでいたが。」「僕の聞いたのは其円じゃアないんだ。縁だ。」「だから円だろう。」「イヤこれは僕が悪かった、君に向って発すべき問ではなかったかも知れない。・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ましてそれは早期の童貞喪失を伴いやすく、女性を弄ぶ習癖となり、人生一般を順直に見ることのできない、不幸な偏執となる恐れがあるのである。 学生時代に女性侮蔑のリアリズムを衒うが如きは、鋭敏に似て実は上すべりであり、決して大成する所以ではな・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たしかにそうだった。子供が自分の衝動の赴くまゝに、やりたい要求からやったことが、先生から見て悪いことがたび/\ある。子供はそこで罰せられ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ことなどは、いつの日にも無いことではあったが、それでも夫は神経が敏くて、受けこたえにまめで、誰に対っても自然と愛想好く、日々家へ帰って来る時立迎えると、こちらでもあちらを見る、あちらでもこちらを見る、イヤ、何も互にワザと見るというのでも無い・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫