・・・「まだ研究していらっしゃるの。……あなたもずいぶん変なかたねえ。いまに手紙かはがきが来ればわかるじゃありませんか。」 台所から出て来た細君は彼が一心に手跡を見比べているのを見て、じれったがって、こう言った。「手紙のほうが小包より・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・「それ御覧遊ばせ、そんなに御嬢様の事を心配していらっしゃる癖に」「何と云って来た。手紙が来たのか、使が来たのか」「手紙も使も参りは致しません」「それじゃ電報か」「電報なんて参りは致しません」「それじゃ、どうした――早・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ あなたがたは立派な学校に入って、立派な先生から始終指導を受けていらっしゃる、またその方々の専門的もしくは一般的の講義を毎日聞いていらっしゃる。それだのに私みたようなものを、ことさらによそから連れて来て、講演を聴こうとなされるのは、ちょ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・あなたはあんまり御用がおありになって、あんまり人に崇拝せられていらっしゃるのですもの。あなたが次第に名高くおなりになるのを、わたくしは蔭ながら胸に動悸をさせて、正直に心から嬉しく存じて傍看いたしていました。それにひっきりなしに評判の作をお出・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・僕たちばらばらになろうたって、どこかのたまり水の上に落ちようたって、お日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ」「そうです、そうです。なんにもこわいことはありません。僕だってもういつまでこの野原にいるかわかりません。もし来年もいるようだっ・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・ 一、そうだとすれば、あらゆる方々が御自分の一日の計をもって充実した気分を保とうと希んでいらっしゃるとき、わきから思ってもいなかった話を注ぎこまれるというのは愉快なことでしょうか。むしろ、落ついて心持のよい音楽でもきいて活動の準備をした・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかしいらっしゃる」と云うのが、その細君の非難の主なるものであった。 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・どんな風に事柄が運んで行ったと云うことはあなたもまだ覚えていらっしゃるでしょう。ブダペストへ参ってからも、わたくしはあなたと御交際を続けて行きました時も、まだ御主人がどんな方だか知らなかったのですね。 女。ええ。 男。そのころある日・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・先下々の者が御挨拶を申上ると、一々しとやかにお請をなさる、その柔和でどこか悲しそうな眼付は夏の夜の星とでもいいそうで、心持俯向いていらっしゃるお顔の品の好さ! しかし奥様がどことなく萎れていらしって恍惚なすった御様子は、トント嬉かった昔を忍・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そのかたも喜劇を演りにペテルスブルグへいらっしゃるんですって。デュウゼとかって名前でしたよ。ご存じでいらっしゃいますか。」そういってその娘の指さす方を見ると、うなだれた暗い婦人が、毛皮にくるまって、自分の荷物のそばに立っている。初めてこの時・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫