・・・お前が己を忘れた時、お前の霊魂は飢えていた。飢えた霊魂は常に己を求める。お前は己を避けようとしてかえって己を招いたのだ。B ああ。男 己はすべてを亡ぼすものではない。すべてを生むものだ。お前はすべての母なる己を忘れていた。己を忘れる・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・そして二人は餓え切っていた。妻は気にして時々赤坊を見た。生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。 国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。大抵は市街地に出て一杯飲んで・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・しかし俺がいなかったら、おまえたちは飢え死にをするよりしかたないところだったんだ。沢本 まあいいから、貴様の計画というものの報告を早くしろ。花田 そうだ。ぐずぐずしちゃいられない。おい青島、堂脇は九頭竜の奴といっしょに来るといっ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ いい方がだいぶ混乱したが、一括すれば、今までの詩人のように直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望ももっていない――餓えたる犬の食を求むるごとくにただただ詩を求め探している詩人は極力排斥すべきである。意志薄弱なる空想家、自己・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・いわゆる文壇餓殍ありで、惨憺極る有様であったが、この時に当って春陽堂は鉄道小説、一名探偵小説を出して、一面飢えたる文士を救い、一面渇ける読者を医した。探偵小説は百頁から百五十頁一冊の単行本で、原稿料は十円に十五円、僕達はまだ容易にその恩典に・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 渠飢えたり矣。「三ちゃん、お起きよ。」 ああ居てくれれば可かった、と奴の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。 十四 強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ からすは、はとの仲間入りすることは断念しましたが、都の空は煙でいつも濁っていて、それに、餌を探すようなごみためがいたって少ないので、そこにいる間は餓えを忍んでいなければなりませんでした。からすは、この都がちっとも自分にとって、いいとこ・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・そンでまア巧いこと乳にありついて、餓え死を免れたわけやが、そこのおばはんいうのが、こらまた随分りん気深い女子で、亭主が西瓜時分になると、大阪イ西瓜売りに行ったまンま何日も戻ってけえへんいうて、大騒動や。しまいには掴み合いの喧嘩になって、出て・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・り、本郷台町のとある薄汚いしもたやの軒に、神道研究の看板が掛っているのを見て、神道研究とはどういうものかわからなかったが、兎も角も転がり込んだ時は、書生にしてくれと、頼む泣声も出なかったほど、あわれに飢え疲れていた。 広島訛に大阪弁のま・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・遮莫おれにしたところで、憐しいもの可愛ものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を此様なバルガリヤ三界へ来て、餓えて、凍えて、暑さに苦しんで――これが何と夢ではあるまいか? この薄福者の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫