・・・それがめずらしく形を現したのは、梅暦の千藤である。千葉の藤兵衛である。 当時小倉袴仲間の通人がわたくしに教えて云った。「あれは摂津国屋藤次郎と云う実在の人物だそうだよ」と。モデエルと云う語はこう云う意味にはまだ使われていなかった。 ・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・此の潜める生来の彼の高貴な稟性は、終に彼の文学から我が文学史上に於て曾て何者も現し得なかった智的感覚を初めて高く光耀させ得た事実をわれわれは発見する。かくしてそれは、清少納言の官能的表徴よりも遥に優れた象徴的感覚表徴となって現れた。それは彼・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・乾けば素焼のように素朴な白色を現した。だが、その表面に一度爪が当ったときは、この湿疹性の白癬は、全図を拡げて猛然と活動を開始した。 或る日、ナポレオンは侍医を密かに呼ぶと、古い太鼓の皮のように光沢の消えた腹を出した。侍医は彼の傍へ、恭謙・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ 丁度その時、鏡のような廻廊から、立像を映して近寄って来るルイザの桃色の寝衣姿を彼は見た。 彼は起き上ることが出来なかった。何ぜなら、彼はまだ、ハプスブルグの娘、ルイザに腹の田虫を見せたことがなかったから。ルイザは呆然として、皇帝ナ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そして、梶自身の愁いの色をそれと比べて見ることは、失われた門標の、彼を映し返してみせてくれる偶然の意義でもあった。 ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定を・・・ 横光利一 「微笑」
・・・氏は示唆的な日本画の手法をもって、麦の収穫に忙がしい農村の光景を写した。その結果が何であるとしても、とにかく氏の描くところには感情がこもっている。画面の上に芸当として並べられた線や色彩ではなくして、氏の心に渦巻くものを画面にさらけ出そうとす・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・この政策の核心は、日本人に対する精神的指導権を、仏教から儒教に移した、という点にあるであろう。かかる政策を激成したものは、キリシタンの運動の刺戟であったと思われる。 秀吉がキリシタン追放令を発布してから六年後の文禄二年に、当時五十二歳で・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・彼は自分の醜い姿を水鏡に映して見て、抑え難い歓喜を感じるらしい。彼はその歓喜を衆人の前に誇示して、Faun らしく無恥に有頂天に踊り回るのである。私たちに嘔吐を催させるものも、彼には Extase を起こす。私たちが赤面する場合に彼は哄笑す・・・ 和辻哲郎 「転向」
・・・座敷に通ってからふと床の間を見ると、床柱にかかった鼻まがりの天狗の面が掛け物の上に横面黒像を映している。珍しい面だと思って床柱を見たが、そこにはそんなに大きな面は掛かっていない。では小さい面が光のぐあいで大きく映ったのかしらと床柱の側まで行・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
・・・枝葉よりさらに枝葉に、末節よりさらに末節に移りたる顕し世の煩いを離れたる時、人は初めてその本体に帰る。本体に帰りたる人は自己の心霊を見神を見、向上の奮闘に思い至る。かの芸術が真義愛荘の高き理想を対象として「人生」を表現するはこれがためである・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫