・・・水車へ水を取るので橋から少し下流に井堰がある、そのため水がよどんで細長い池のようになっている、その岸は雑木が茂って水の上に差し出ているのが暗い影を映しまた月の光が落ちているところは鏡のよう。たぶん羽虫が飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消え・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 堤の上はそよ吹く風あれど、川づらはさざ波だに立たず、澄み渡る大空の影を映して水の面は鏡のよう。徳二郎は堤をおり、橋の下につないである小舟のもやいを解いて、ひらりと乗ると、今まで静まりかえっていた水面がにわかに波紋を起こす。徳二郎は、・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 局長は、小使から局員の方へそのうわ眼を移しながら云った。 小使は、局長の光っている眼つきが、なお自分に嫌疑をかけているのを見た。彼は、反抗的な、むずかしい気持になった。彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ ――「成程今までの我々の農民文学は、日本農業の特殊性をさながらの姿で写しとった。それは、農林省の『本邦農業要覧』にあらわれた数字よりも、もっと正確に日本農民の生活を描きだしていた。けれども、それだけに止っていた。」とナップ三月号で池田・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・ 栗本は、進撃の命令を下した者に明かな反感を現して呶鳴った。 が、誰れも、何も云わなかった。 兵士達はロシア人をめがけて射撃した。 大隊長とその附近にいた将校達は、丘の上に立ちながら、カーキ色の軍服を着け、同じ色の軍帽を・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・で、自宅練修としては銘々自分の好むところの文章や詩を書写したり抜萃したり暗誦したりしたもので、遲塚麗水君とわたくしと互に相争って荘子の全文を写した事などは記憶して居ます。私は反古にして無くして仕舞いましたが、先達て此事を話し出した節聞いたら・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・と自分の思わくとお浪の思わくとの異っているのを悲む色を面に現しつつ、正直にしかも剛情に云った。その面貌はまるで小児らしいところの無い、大人びきった寂びきったものであった。 お浪はこの自己を恃む心のみ強い言を聞いて、驚いて目を瞠って、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・大内は西方智識の所有者であったから歟、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、我邦の城は孑然として町の内、多くは外に在るのを常として、町は何等の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町を繞らして濠を有し、町の出入口は厳重な木戸木・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・そして、こっそり小さい円るい鏡に写してみた。すると急に自分の顔が罪人になって見えてきた。俺は急いで鏡を机の上に伏せてしまった。 雑役が用事の最後に、ニヤ/\笑いながら云った。「お前さん今度が初めてだね。これで一通りの道具はちゃアんと・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・私も冬の外套を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋の障子の外に移した。わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。 私が早く自分の配偶者を失い、六歳を頭に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫