・・・ソンナものを写すのは馬鹿馬鹿しい、近日丸善から出版されるというと、そうか、イイ事を聞いた、無駄骨折をせずとも済んだといった。 その時、そんなものを写してドウすると訊くと、「何かの時には役に立つさ、」といった。「何でも書物は一生の中に一度・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ しかし、それは、木を移す時期でなかったので、実もしなびてしまえば、木も枯れてしまいました。 けっきょく、男は、ほねおり損に終わったわけです。 小川未明 「ある男と無花果」
・・・ 一日の生活のある一片を捉えるのもいゝし、ある感情の波動を抒べるのもいゝし、ある思想に形を与えるのもいゝし、人と人との会話のある部分を写すのもいゝと思う。 一つよりも十の習練である。十の習練よりも二十の習練である。初めから文章のうま・・・ 小川未明 「文章を作る人々の根本用意」
たま/\書斎から、歩を街頭に移すと、いまさら、都会の活動に驚かされるのであります。こちらの側から、あちらの側に行くことすら、容易ならざる冒険であって時には、自分に不可能であると感じさせる程、自動車や、自転車や電車がしっきりなしに相つい・・・ 小川未明 「街を行くまゝに感ず」
・・・何ですか、昨日の話の病人を佃の方へ移すことは、まあ少し見合わせるように……今動かしちゃ病人のためにもよくなかろうし、それから佃の方は手広いことには手広いが、人の出入りが劇しくって騒々しいから、それよりもこっちで当分店を休んだ方がよかろうと思・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで、自然人間の思想も健全になるというような訳で……」斯う・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・しかし自分がその隠れた欲望を実行に移すかどうかという段になると吉田は一も二もなく否定せざるを得ないのだった。煙草を喫うも喫わないも、その道具の手の届くところへ行きつくだけでも、自分の今のこの春の夜のような気持は一時に吹き消されてしまわなけれ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・夕方になって陽がかなたへ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜の空に写すのであった。 ――吾々は「扇を倒にした形」だとか「摺鉢を伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・これを対岸から写すので、自分は堤を下りて川原の草原に出ると、今まで川柳の蔭で見えなかったが、一人の少年が草の中に坐って頻りに水車を写生しているのを見つけた。自分と少年とは四、五十間隔たっていたが自分は一見して志村であることを知った。彼は一心・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・彼の祖父の非凡な人であったことを今ここで詳しく話すことはできないが、その一つをいえば真書太閤記三百巻を写すに十年計画を立ててついにみごと写しおわったことがある。僕も桂の家でこれを実見したが今でもその気根のおおいなるに驚いている。正作はたしか・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
出典:青空文庫