・・・が二人の間には、膝から下を切断し、おまけに腹膜炎で海豚のように腹がふくれている患者が担架で運んで来られ、看護卒がそれを橇へ移すのに声を喧嘩腰にしていた。栗本は田口がやって来そうにないのを見て、橇からおりて雪の中の馬の頭のさきを廻って行った。・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・そして若し、別の探照燈で映すならば、現実は、全然ちがった姿に反映するかもしれないのだ。芥川龍之介のやはり旅順攻囲戦争に取材した「将軍」をよんでみるならば、それはすぐ分る。芥川の用いた探照燈は、「肉弾」に用いられてゐる探照燈とはちがうのだ。だ・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・担架に移す時、バラバラ落ちそうになった。 彼等は、空腹も疲労も忘れていた。夜か昼か、それも分らなかった。仲間を掘り出すのに一生懸命だった。 二人、三人と、掘り出されるに従って、椀のような凹みに誰れか生き残っている希望は失われて行った・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・明戸を出はずるる頃、小さき松山の行く手にありて、それにかかれる坂路の線の如くに翠の影の中に入れるさま、何の事はなけれど繕わぬ趣ありておもしろく見えければ、寒月子はこれを筆に写す。おとう坂というところとかや。菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがた・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・女が鉄瓶を小さい方の五徳へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋を取る、ぐいと雲竜を沈ませる、危く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳り出しもし得ず引退んだり出たりしている間に鍋は火にかけられる。「下の抽斗に鰹節があるから。と女は云いながら・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・当下に即ち了するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の喜は溢れていると思うようになれば、勝って本より楽しく、負けてまた楽しく、禽を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで事相の成不成、機縁の熟・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・曇った鏡が人を映すように男は鈍々と主人を見上げた。年はまだ三十前、肥り肉の薄皮だち、血色は激したために余計紅いが、白粉を透して、我邦の人では無いように美しかった。眼鼻、口耳、皆立派で、眉は少し手が入っているらしい、代りに、髪は高貴の身分の人・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・が、火鉢に移すと、何も言わずに出ていった。 寒かった、龍介はテーブルを火鉢の側にもってきて、それに腰をかけて、火鉢の端に足をたてた。「行儀がわるい」女は下から龍介を見上げた。「寒いんだよ。それより、君はこれを敷け」彼は女に座布団・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・何しろ、家を移すということは容易じゃ無いよ――加之に遠方と来てるからなあ」 相川は金縁の眼鏡を取除して丁寧に白いハンケチで拭いて、やがてそれを掛添えながら友達の顔を眺めた。「相川君、まだ僕は二三日東京に居る積りですから、いずれ御宅の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・その無造作は、自分の書斎を外国の町に移すぐらいの考えでいた。全く知らない土地に身を置いて見ると、とかく旅の心は落ちつかず、思うように筆も取れない。著作をしても旅を続けられるつもりの私は、かねての約束もその十が一をも果たし得なかった。「これま・・・ 島崎藤村 「分配」
出典:青空文庫