・・・の字軒の主人は笑ううちにも「縁起でもねえ」と思ったと言っていました。 それから幾日もたたないうちに半之丞は急に自殺したのです。そのまた自殺も首を縊ったとか、喉を突いたとか言うのではありません。「か」の字川の瀬の中に板囲いをした、「独鈷の・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・田代君は存外真面目な表情を浮べながら、ちょいとその麻利耶観音を卓子の上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻して、「ええ、これは禍を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする、縁起の悪い聖母だと云う事ですよ。」「まさか。」「とこ・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・「縁起でもないものを拾ったな。」「何、僕はマスコットにするよ。……しかし 1906 から 1926 とすると、二十位で死んだんだな。二十位と――」「男ですかしら? 女ですかしら?」「さあね。……しかし兎に角この人は混血児だっ・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になったら大変ですね。保険は碌についていないし、……」 僕等はそんなことを話し合ったりした。しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想を押しのけ、もう一度ペンを動かそうとした。が、ペンはどう・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・が、その途中も動悸はするし、膝頭の傷はずきずき痛むし、おまけに今の騒動があった後ですから、いつ何時この車もひっくり返りかねないような、縁起の悪い不安もあるし、ほとんど生きている空はなかったそうです。殊に車が両国橋へさしかかった時、国技館の天・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・とも子 いや……縁起の悪い……沢本 全く貴様はどうかしやしないか。花田 さあ、ともちゃん、俺たちの中から一人選んでくれ。俺が引き受けた、おまえの旦那は決して死なしはしないから。とも子 だってそんな寝棺を持ち込む以上は・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・これはまた学問をしなそうな兄哥が、二七講の景気づけに、縁日の夜は縁起を祝って、御堂一室処で、三宝を据えて、頼母子を営む、……世話方で居残ると……お燈明の消々時、フト魔が魅したような、髪蓬に、骨豁なりとあるのが、鰐口の下に立顕れ、ものにも事を・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・何かねえ、小鳥の事か、木の実の話でもッておっしゃるけれど、どういっていいのか分らず、栗がおッこちるたって、私ゃ縁起が悪いもの。いいようがありません。それでなければ、治ってから片瀬の海浜にでも遊びにゆく時の景色なんぞ、月が出ていて、山が見えて・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・――柳を中に真向いなる、門も鎖し、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、苫掛けた大船のごとく静まって、梟が演戯をする、板歌舞伎の趣した、近江屋の台所口の板戸が、からからからと響いて、軽く辷ると、帳場が見えて、勝手は明い――そこへ、真黒な外套が・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・「ええ、縁起でもない、旦那さん。」「ま、姦通め。ううむ、おどれ等。」「北国一だ。……危えよ。」 殺した声と、呻く声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、向二階で喝采、ともろ声に喚いたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟蒻の・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
出典:青空文庫