・・・ 私も――縁起でもないけど――何しろお前さんの便りはなし、それにあちこち聞き合わして見ると、てんで船の行方からして分らないというんだもの。ああ気の毒に! 金さんはそれじゃ船ぐるみ吹き流されるか、それとも沖中で沈んでしまって、今ごろは魚の餌食・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 夜の食を済ませて後、為すこともなければ携えたる地理の書を読みかえすに、『武甲山蔵王権現縁起』というものを挙げたるその中に、六十一代朱雀天皇天慶七年秩父別当武光同其子七郎武綱云々という文見え、また天慶七年武光奏し奉りて勅を蒙り五条天皇少・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・「ハハハ、そうよ、異に後生気になったもんだ。寿命が尽きる前にゃあ気が弱くなるというが、我アひょっとすると死際が近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無しだ。「縁起の悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云って・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・非常な源氏の愛読者で、「これを見れば延喜の御代に住む心地する」といって、明暮に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて倦まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。 長・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・一友人から、銅像演技という讃辞を贈られた。恰好の舞台がないのである。舞台を踏み抜いてしまう。野外劇場はどうか。 俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔はひとりすすり泣く。」この男、なかな・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしている。こんな「純真」のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼に似ている。どうしても倫理の訓練・・・ 太宰治 「純真」
・・・それは皆、拙劣きわまる演技でしかない。稲妻。あー こわー なんて男にしがみつく、そのわざとらしさ、いやらしさ。よせやい、と言いたい。こわかったら、ひとりで俯伏したらいいじゃないか。しがみつかれた男もまた、へたくそな手つきで相手の肩を必要以上・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・青年、高須隆哉の舌打が、高野幸代の完璧の演技に、小さい深い蹉跌を与えた。 高須隆哉が楽屋を訪れたときには、ちょうど一幕目がおわって、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて坐って、大口あいて笑っていた。煙草のけむりが濛々と部屋に立ちこも・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ 文楽の人形芝居については自分も今まで話にはいろいろ聞かされ、雑誌などでいろいろの人の研究や評論などを読んではいながら、ついつい一度もその演技を実見する機会がなかった。それが最近に不思議な因縁からある日の東京劇場におけるその演技を臍の緒・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・従って観客はもはや傍観者ではなくてみずからその場面の中に侵入し没入して演技者の一人になってしまうのである。それで、おもしろいことには、劇や舞踊の現象自身は三次元空間的であるにかかわらず、観客の位置が固定しているためにその視像は実に二次元的な・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫