・・・シルク・ハットは円筒の胴に土蔵の窓明りを仄めかせている。そのまた胴は窓の外に咲いた泰山木の花を映している。……しかしふと指に触れたズボンの底の六十何銭かはたちまちその夢を打ち壊した。今日はまだやっと十何日かである。二十八日の月給日に堀川教官・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・物心のついた時には父は遠島になっていて母ばかりの暮らしだったので、十二の時にもう元服して、お米倉の米合を書いて母と子二人が食いつないだもんだった。それに俺しには道楽という道楽も別段あるではなし、一家が暮らして行くのにはもったいないほどの出世・・・ 有島武郎 「親子」
・・・怪しげな煙筒からは風にこきおろされた煙の中にまじって火花が飛び散っていた。店は熔炉の火口を開いたように明るくて、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が向側まではっきりと照らされていた。片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、強て・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・父の父、すなわち私たちの祖父に当たる人は、薩摩の中の小藩の士で、島津家から見れば陪臣であったが、その小藩に起こったお家騒動に捲き込まれて、琉球のあるところへ遠島された。それが父の七歳の時ぐらいで、それから十五か十六ぐらいまでは祖父の薫育に人・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・ と見る、偉大なる煙筒のごとき煙の柱が、群湧いた、入道雲の頂へ、海ある空へ真黒にすくと立つと、太陽を横に並木の正面、根を赫と赤く焼いた。「火事――」と道の中へ衝と出た、人の飛ぶ足より疾く、黒煙は幅を拡げ、屏風を立てて、千仭の断崖を切・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋の片足の、霜に凍て附きて堅くなりたること、路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷の煙の立ち騰ること等、およそ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・…… 二階の窓ガラス越しに、煙害騒ぎの喧ましい二本の大煙筒が、硫黄臭い煙を吐いているのがいつも眺められた。家のすぐ傍を石炭や礦石を運ぶ電車が、夜昼のかまいなく激しい音を立てて運転していた。丈の低い笹と薄のほかには生ええない周囲の山々には・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・「君の弟さんには会ったことがないからどんな性格の人物かわからんが、あるいはこれを機会に、君へ遠島を仰せつけた気でいるんじゃないかい? そうだと困るね」 芳本は日増に不快と焦燥の念に悩まされて、暗い顔してうっそりかまえている耕吉に、毎・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。 アグリパイナは、ネロと共に艦に乗せられ、南海の一孤島に流された。 単調の日が続いた。ネロは、島の牛の乳を飲み、まるまると肥えふとり、猛く美しく成長した。アグリパイナは・・・ 太宰治 「古典風」
・・・釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。 夕日が画のように斜めにさし渡った。 さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺の積・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫