・・・が、彼は悪感を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさに・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・嘗て、本郷なる何某と云うレストランに、久米とマンハッタン・カクテルに酔いて、その生活の放漫なるを非難したる事ありしが、何時か久米の倨然たる一家の風格を感じたのを見ては、鶏は陸に米を啄み家鴨は水に泥鰌を追うを悟り、寝静まりたる家家の向う「低き・・・ 芥川竜之介 「久米正雄」
・・・老紳士はこの間にポケットから、また例の瀬戸物のパイプを出して、ゆっくり埃及の煙をくゆらせながら、「狄青が五十里を追うて、大理に入った時、敵の屍体を見ると、中に金竜の衣を着ているものがある。衆は皆これを智高だと云ったが、狄青は独り聞かなか・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・が、呪を負うようになった原因については、大体どの記録も変りはない。彼は、ゴルゴタへひかれて行くクリストが、彼の家の戸口に立止って、暫く息を入れようとした時、無情にも罵詈を浴せかけた上で、散々打擲を加えさえした。その時負うたのが、「行けと云う・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・「翁とは何の翁じゃ。」「おう、翁とばかりでは御合点まいるまい。ありようは、五条の道祖神でござる。」「その道祖神が、何としてこれへ見えた。」「御経を承わり申した嬉しさに、せめて一語なりとも御礼申そうとて、罷り出たのでござる。」・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・いよいよはがきに鉛筆を走らせるまでには、どうにか文句ができるだろうくらいな、おうちゃくな根性ですましていたが、こうなってみると、いくら「候間」や「候段」や「乍憚御休神下され度」でこじつけていっても、どうにもこうにも、いかなくなってきた。二、・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・彼れはじっとその戯れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。凡ての事が他人事のように順序よく手に取るように記憶に甦った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸はぷっつり切れてしまった。彼れはそ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・余りの事に、これは親さえ組留められず、あれあれと追う間に、番太郎へ飛込んだ。 市の町々から、やがて、木蓮が散るように、幾人となく女が舞込む。 ――夜、その小屋を見ると、おなじような姿が、白い陽炎のごとく、杢若の鼻を取巻いているのであ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離すのと、笊を引手繰るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行く。 私は腕組をしてそこを離れた。 以前、私たちが、草鞋に手鎌、腰兵粮というものものしい・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・いては、第一と世に知られたこの武生の中でも、その随一の旅館の娘で、二十六の年に、その頃の近国の知事の妾になりました……妾とこそ言え、情深く、優いのを、昔の国主の貴婦人、簾中のように称えられたのが名にしおう中の河内の山裾なる虎杖の里に、寂しく・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
出典:青空文庫