・・・「腹へって腹へって、お前、負うてくれんか!」「うす汚い! 手前のようなやつ、負えるかい。」 安次は片手で胸を圧えて、裂けた三尺のひと端を長く腰から垂らしたまま曳かれていった。痩せた片肩がひどく怒って見えるのは、子供の頃彼の家が、・・・ 横光利一 「南北」
・・・「おう、利よ、来たかや。」 こんな優しい声で小父がいうと、けちんぼだといわれている伯母が拾銭丸をひねった紙包を私の手に握らせた。ここには大きな二人の姉弟があったが、この二人も私を誰よりも愛してくれた。 三番目の伯母は、私たちが東・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・私もまた彼の頽廃について責めを負うべき位置にあるのです。ことに私は彼のためにどれだけ物的の犠牲を払ってやりましたか。物的価値に執する彼の態度への悪感から私はむしろそういう尽力を避けていました。そうしてこの私の冷淡は彼の態度をますます浅ましく・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・おのれのみが志を遂げんために利を逐うて狂奔する虚業家、或いは政治家、おのれの心のみを倦まざらしめんためにホテルへ踊りに行く貴族富豪、それらを見て父の心には勃然として怒りの情が動きはしまいか。今や、皇室をねらう不埒漢さえも出た非常の時である。・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫