・・・宇野は隠岐の島出身、つまり日本海である。すると、太平洋のタコは白好きで、日本海のタコは赤好きなのか。きっと、ソ連側だからだろう、などと笑いあったが、魚にそれぞれ好みの色のあるのは疑えない。ボラなども、赤いものなら、風船でも、布でも、なんでも・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・「まアいいよ。そんなに急がんでもいいよ」と、声をかけながら、障子を開けたのは西宮だ。「おやッ、西宮さん」と、お梅は見返ッた。「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風の中を覗くと、平田は帯を締め了ろうとする・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 善吉は注置きの猪口を飲み乾し、手酌でまた一杯飲み乾し、杯泉でよく洗ッて、「さア献げるよ。今日ッきりなんだ。いいかね、器用に受けて下さい」 吉里は猪口を受けて一口飲んで、火鉢の端に置いて、じっと善吉を見つめた。 吉里は平田に再び・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・或は男子は分家して一戸の主人となることあるゆえ女子に異なりと言わんかなれども、女子ばかり多く生れたる家にては、其内の一人を家に置き之に壻養子して本家を相続せしめ、其外の姉妹にも同様壻養子して家を分つこと世間に其例甚だ多し。左れば子に対して親・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・朝早く起き夜は遅く寝ね、昼は寝ずして家の内のことに心を用ひ、織縫績緝怠べからず。又茶酒抔多く飲べからず。歌舞伎小唄浄瑠璃抔の淫たることを見聴べからず。宮寺抔都て人の多く集る所へ四十歳より内は余り行べからず。 婦人が内を治めて家事・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・骨を折って自家の占め得た現代文壇における地位だけは、婉曲にほのめかして置きたい。ただしほのめかすだけである。傲慢に見えてはならない。 ピエエル・オオビュルナンは満足らしい気色で筆を擱いた。ぎごちなくなった指を伸ばして、出そうになった欠を・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・(家来来て桜実一皿を机の上に置き、バルコンの戸を鎖戸はまあ開けて置け。(間何をそんなに吃驚するのだ。家来。申上げても嘘だといっておしまいなさいましょう。(半ば独言ははあ、あの離座敷に隠れておったわい。主人。誰が。家来。何だかわた・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・もしか明日の朝起きて見まして彼奴が消えて無くなっていれば天の助というものでございます。わたくしは御免を蒙りまして、お家の戸閉だけいたしまして、錠前の処へはお寺から頂いて来たお水でも振り掛けて置きましょう。何にいたせわたくしはついぞあんな人間・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・さるを第三句に主眼を置きしゆえ結末弱くなりて振わず。「怒り落つる滝」などと結ぶが善し。島崎土夫主の軍人の中にあるに妹が手にかはる甲の袖まくら寝られぬ耳に聞くや夜嵐 上三句重く下二句軽く、瓢を倒にしたるの感あり。こ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
出典:青空文庫