・・・妻は良人の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って隅から隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままでつまごを・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・あの泣きもし得ないでおろおろしている子供が、皆んなから手柄顔に名指されるだろう。配達夫は怒りにまかせて、何の抵抗力もないあの子の襟がみでも取ってこづきまわすだろう。あの子供は突然死にそうな声を出して泣きだす。まわりの人々はいい気持ちそうにそ・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・と優しき腰元はおろおろ声。 夫人の面は蒼然として、「どうしても肯きませんか。それじゃ全快っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」 と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋を少し寛げつつ、玉のごとき胸部を顕・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・しかし日暮までには民子も帰ってくることと思いながら、おろおろして待って居る。皆が帰っていよいよ夕飯ということになっても民子の姿は見えない、誰もまた民子のことを一言も言うものもない。僕はもう民子は市川へ帰ったものと察して、人に問うのもいまいま・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ お君は紙のように白い豹一の顔を見たとたんに、おろおろと泣いた。円タクの助手をやったと聞かされ、それが自分のせいのように自責を感じ、「みんな私が悪かったのや、私の軽はずみを嗤っとくれやす」 と、顔もよう見ないで言った。着物の端を・・・ 織田作之助 「雨」
・・・世の中にこんな苦痛があったのかと、寺田もともにポロポロ涙を流して、おろおろ見ている。一代は急に、噛んで、噛んで! と叫んだ。下腹の苦痛を忘れるために、肩を噛んでもらいたいのだろう。寺田はガブリと一代の肩にかぶりついた。かつては豊満な脂肪で柔・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・この女が明日は自分以外の男を客に取るのかと、得体の知れない激しい嫉妬が天辰の主人をおろおろさせてしまった。すぐ金を出して、女を天下茶屋のアパートに囲った。一月の間魂が抜けたように毎夜通い、夜通し子供のように女のいいつけに応じている時だけが生・・・ 織田作之助 「世相」
・・・恥かしいことだけど、どういう訳かその年になるまでついぞ縁談がなかったのだもの、まるでおろおろ小躍りしているはたの人たちほどではなかったにしても、矢張り二十四の年並みに少しは灯のつく想いに心が温まったのは事実だ。けれど、いそいそだなんて、そん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・鶴さんはやっぱりあたしを毛嫌いして帰らぬのだと、おろおろ泣きだしたところへ、電報が来た。照井が玄関へ受け取りに出て、配達人が一枝だったので、驚いた。「やあ、自転車が役に立ちましたね。いつかあんなことをいって済みません」 一枝はだまっ・・・ 織田作之助 「電報」
・・・とに坊様は、わたしの泣くのを見ていてもつまりません。……わたし、坊様が来てくださったので弟に会ったような気がいたしました。坊様もお達者で、早く大きくなって偉いかたになるのですよ」とおろおろ声で言って「徳さんほんとにあまりおそくなるとお宅に悪・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
出典:青空文庫