・・・ 陽子の足許の畳の上へ胡坐を掻いて、小学五年生の悌が目醒し時計の壊れを先刻から弄っていた。もう外側などとっくに無くなり、弾機と歯車だけ字面の裏にくっついている、それを動かそうとしているのだ。陽子は少年らしい色白な頸窩や、根気よい指先を見・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ ガリガリと簪で髷の根を掻いて居る様子はまるで田舎芝居の悪役の様である。 あまり怒って言葉の出ない栄蔵は、膝の上で両手を拳にして、まばらな髭のある顔中を真青にして居る。額には、じっとりと油汗がにじんで居る。 夜着の袖の中からお君・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ まっ赤な地へ白で大きな模様の出て居る縮緬の布は細い絹針の光る毎に一針一針と縫い合わせられて行くのを、飼い猫のあごの下を無意識にこすりながら仙二は見て居た。 自分の居るのをまるで知らない様に落ついた眼つきで話したい事を話して居る娘の・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・自分の厩で飼い馴れた馬にとびのり「白」に向って突撃した農民の集団であった。南露に分散していた「赤のパルチザン」は、ブジョンヌイの第一騎兵隊の噂をきき、猟銃をかつぎ黒パンを入れた袋をかついで次から次へと集って来た。 広大なソヴェト同盟内の・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・そして、「あら、真個にお飼いになるの」と云う間もなく、可愛い二羽のべに雀と、金華鳥、じゅうしまつなどを、持ち運びの出来る小籠で、大切そうに運び込んだのである。 私は悦び、額をつけて中を覗いた。子供の時、弟が、カナリアと鶏、鳩など・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・同じ人が僅か四五年の後に進んで現行勢力の下位に文学を置こうとすることは理解に困難である。 室生犀星氏が近衛公や一部の顕官に逢い、一夕文学談を交したことで、軍人、官吏も文学を理解しようとする誠意を持っていると感激し、庶民出生の長い艱難多か・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
・・・ けれども、彼の如く、上流の下、或は中の下位の社会的地位の者の家庭に滲み込んで居る、子供としての独立力の欠乏、剛健さの退廃と云うものは、確に自分に頭と一致しない矛盾を与えて居たと思う。 幸、性格的に自分は甘たるい、つんとした、そして・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・育児院で育てられて、十三歳からノロオニュの農家の雇娘で羊飼いをした。巴里へ出てからは十九歳の裁縫女として十二時間労働をし、そのひどい生活からやがて眼を悪くして後、彼女は自家で生計のための仕立ものをしながらその屋根裏の小部屋の抽斗の中にかくし・・・ 宮本百合子 「知性の開眼」
・・・「そこで彼女は一匹の小犬を飼い、幾株かの花を植え」「春の日は花の下に坐し、冬は煖炉にうずくまって、心情は池水のように、静かに、小さく、絶望的で、一生はこうして終ってしまうのだと、自ら悟った様子でした」 そこへ思いもかけず、学者の孤児とな・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・ 其の二年程前から――前に孝ちゃんの家が裏に居た頃――一番上の弟が鶏を飼い始めて、春に二度目の雛を八羽ほど孵させた。 初めての時の結果が大変悪かった上に、今度のが予想外によかったので、無邪気な飼主は宇頂天になって、何の餌をやるといい・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
出典:青空文庫