・・・真蔵は頭を掻いて笑った。「否、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は彼処を開けさすのは泥棒の入口を作えるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の出入口を作えたようなものだ」とお徳が思わず地・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・所詮倫理学は死せる概念の積木細工ではなくして、活きた人間存在の骨組みある表現なのである。この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・彼は大きい、汚れた手で土を無茶くちゃに引き掻いた。そして、穴の外へ盲目的に這い上ろうとした。「俺は死にたくない!」彼は全身でそう云った。 将校は血のついた軍刀をさげたまゝ、再び軍刀をあびせかけるその方法がないものゝように、ぼんやり老人を・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 常に労働者と鼻突きあわして住み、また農産物高の半面、増税と嵩ばる生活費に、農産物からの増収を吐き出して足りない百姓の生活を目撃している者には、腑甲斐ない話だとそれは嘆ぜられるのだ。攻勢の華やかな時代にプロレタリア文学があって、敗北の闇・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・家から、手紙に札を巻きこんで送られて、金が手に這入ると、酒を飲み、女を買いに行く。明日の生命も分らないということが常に心にあって、今日のうちに出来るだけ快楽をむさぼっておかないと損だ、というような気持になるのだ。 街へ出ると、露西亜人が・・・ 黒島伝治 「戦争について」
・・・生れたばかりの仔どもの時分から飼いつけた家畜がどんなに可愛いものであるか、それは、飼った経験のある者でなければ分らないことだった。「ロシア人をいじめて、泣いたり、おがんだりするのに、無理やり引っこさげて来るんだからね、――悪いこったよ、・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ こゝ半年ばかり、健二は、親爺と二人で豚飼いばかりに専心していた。荷車で餌を買いに行ったり、小屋の掃除をしたり、交尾期が来ると、掛け合わして仔豚を作ることを考えたり、毎日、そんなことで日を暮した。おかげで彼の身体にまで豚の臭いがしみこん・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・その恐ろしい山々の一ト列りのむこうは武蔵の国で、こっちの甲斐の国とは、まるで往来さえ絶えているほどである。昔時はそれでも雁坂越と云って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪しい地図に道路があるように書いてあるのもある。し・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・そして今日はまた定りのお酒買いかネ。」「ああそうさ、厭になっちまうよ。五六日は身体が悪いって癇癪ばかり起してネ、おいらを打ったり擲いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済んだが、もう癒ったからまた今日っからは毎日だろう。それもいいけ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮する愛着に出るのもあろう。あるいは単に臨終の苦痛を想像して、戦慄するのもあるかも知れぬ。 いちいちにかぞえきたれば、その種類はかぎりもないが、要するに、死そのものを恐怖す・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫