・・・ 細君が生きていた頃は、送って来る為替や小切手など、細君がちゃんと払出を受けていたのだが、細君が死んで、六十八歳の文盲の家政婦と二人で暮すようになると、もう為替や小切手などいつまでも放ったらかしである。 近所に郵便局があるので、取り・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ であるから正作が西国立志編を読み初めたころは、その家政はよほど困難であったに違いない。けれどもその家庭にはいつも多少の山気が浮動していたという証拠には、正作がある日僕に向かって、宅には田中鶴吉の手紙があると得意らしく語ったことがある。・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・「ほう、そいつは、俺も加勢するんだった。いつかは、そんなことになると思うとったんだ。」橇の上からピストルを放したメリケン兵のロシア語は、まだ栗本の耳にまざまざと残っていた。「眼のこ玉から火が出る程やっつけてやるといいんだ!」 けれど・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・別な方からは、大胆な歌声が起る。 俺は起き抜けに足踏みをし、壁をたゝいた。顔はホテり、眼には涙が浮かんできた。そして知らないうちに肩を振り、眉をあげていた。「ごはんの用――意ッ!」 俺はそれを待っていた。丁度その時は看守も雑役も・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ゃ 売られて行くわいな と小声で呟き、起き上って、また転倒し、世界が自分を中心に目にもとまらぬ速さで回転し、 わたしゃ 売られて行くわいな その蚊の鳴くが如き、あわれにかぼそいわが歌声だけが、はるか雲煙のかなたから聞えて・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・とらわれのわれをよぶ 気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯枝を二三度ばさばさゆすぶってみた。いのちともしきわれをよぶ 足だまりにしていた枯枝がぽきっと折れた。不・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・家へ帰ると子供の無心の歌声が聞える。ああ、よかった、眼があいたかと部屋に飛び込んでみると、子供は薄暗い部屋のまんなかにしょんぼり立っていて、うつむいて歌を歌っている。 とても見て居られなかった。私はそのまま、また外へ出る。何もかも私ひと・・・ 太宰治 「薄明」
・・・あとは私と義妹が居残って、出来る限り火勢と戦い、この家を守ろうじゃないか。焼けたら、焼けたで、皆して力を合せ、焼跡に小屋でも建てて頑張って見ようじゃないか。 私からそれを言い出したのであったが、とにかく一家はそのつもりになって、穴を掘っ・・・ 太宰治 「薄明」
・・・勝治の酔いどれた歌声が聞えた。 節子と有原は、ならんで水面を見つめていた。「また兄さんに、だまされたような気が致します。七度の七十倍、というと、――」「四百九十回です。」だしぬけに有原が、言い継いだ。「まず、五百回です。おわびを・・・ 太宰治 「花火」
・・・歌声すこしずつ近くなる。風吹く。枯葉舞う。 寒くなりましたね。(寝ている野中のほうを顎どうしますか? ずいぶん今夜は飲んだからなあ。 悪いお酒じゃないんですか? 頭が痛い痛いと言っていましたけど。 だいじ・・・ 太宰治 「春の枯葉」
出典:青空文庫