・・・私はこの簡単な物差ですべてのものを無雑作に可否のいずれかに決するように教えられて来たのであった。骨牌のような札の片側には「自」反対の側には「他」と書いてある。私は時と場合とに応じてこの札の裏表を使い分ける事を教えられた。 見ているうちに・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・服装のみならず、その容貌もまた東京の町のいずこにも見られるようなもので、即ち、看護婦、派出婦、下婢、女給、女車掌、女店員など、地方からこの首都に集って来る若い女の顔である。現代民衆的婦人の顔とでも言うべきものであろう。この顔にはいろいろの種・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・園主佐原氏は久しく一同とは相識の間である。下婢に茶菓を持運ばせた後、その蔵幅中の二三品を示し、また楽焼の土器に俳句を請いなどしたが、辞して来路を堤に出た。その時には日は全く暮れて往来の車にはもう灯がついていた。 昭和改元の年もわずか二三・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・大阪へ来て文芸を談ずると云うことの可否は知りません。儲ける話でもしたら一番よかろうと思っているんですが、「文芸と道徳」では題をお聴きになっただけでも儲かりません。その内容をお聴きになってはなお儲かりません。けれども別に損をするというほどの縁・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・そこで家を持って下婢共を召し使った事は忘れて、ただ十年前大学の寄宿舎で雪駄のカカトのような「ビステキ」を食った昔しを考えてはそれよりも少しは結構? まず結構だと思っているのさ。人は「カムバーウェル」のような貧乏町にくすぼってると云って笑うか・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・唯、科学隆盛以来、哲学は科学の下婢となったという感なきを得ない。輓近に至って、単に認識論的となり、更に実用主義的ともなった。哲学は哲学自身の問題を失ったかと思われるのである。 私はデカルト哲学へ返れというのではない。唯、なお一度デカ・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・家事を司どる婦人には自から財産使用の権利あり、一品一物も随意にす可らずとは、取りも直さず内君は家の下婢なりと言うに等し。都て我輩の反対する所なり。一 女は我親の家をば続ず、舅姑の跡を継ぐ故に、我親よりもを大切に思ひ孝行を為べし。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・父母は唯発案者にして決議者に非ず、之を本人に告げて可否を問い、仮初にも不同心とあらば決して強うるを得ず。直に前議を廃して第二者を探索するの例なれば、外国人などが日本流の婚姻を見て父母の意に成ると言うは、実際を知らざる者の言にして取るに足らず・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ 古今、支那・日本の風俗を見るに、一男子にて数多の婦人を妻妾にし、婦人を取扱うこと下婢の如く、また罪人の如くして、かつてこれを恥ずる色なし。浅ましきことならずや。一家の主人、その妻を軽蔑すれば、その子これに傚て母を侮り、その教を重んぜず・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・だが、キュリー夫人へのその讚歎をそれなりすらりと日本の現状にふりむけてみて、そこにある日本の婦人科学者の成長の可能条件の可否に即して真面目に考えた人たちは果して何人在っただろう。フランスであったからこそ、キュリー夫人が女で科学者であるという・・・ 宮本百合子 「市民の生活と科学」
出典:青空文庫