・・・枳の実で閉塞した鼻孔を穿ったということは其当時では思いつきの軽便な方法であった。果物のうちで不恰好なものといったら凡そ其骨のような枳の如きものはあるまい。其枳の為に救われたということで最初から彼の普通でないことが示されて居るといってもいい。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・それから菊の話と椿の話と鈴蘭の話をした。果物の話もした。その果物のうちでもっとも香りの高い遠い国から来たレモンの露を搾って水に滴らして飲んだ。珈琲も飲んだ。すべての飲料のうちで珈琲が一番旨いという先生の嗜好も聞いた。それから静かな夜の中に安・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・だから三と云う関係を知るのは結構だが林檎と云う果物を忘るる事はとうてい文芸家にはできんのであります。文芸家の意志を働かす場合もその通りであります。物の関係を改造するのが目的ではない、よりよく情を働かし得るために改造するのである。からして情の・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・何百万と云う貨物を盗んだ。おれはミリオネエルだ。そのくせかつえ死ななくてはならないのだ。」 一本腕は目を大きくみはった。そして大声を出して笑った。「ミリオネエルだ。あの、おめえがか。して見ると、珍らしいミリオネエルの変物だなあ。まあ、い・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・羊の足の神、羽根のある獣、不思議な鳥、または黄金色の堆高い果物。この種々な物を彫刻家が刻んだ時は、この種々な物が作者の生々した心持の中から生れて来て、譬えば海から上った魚が網に包まれるように、芸術の形式に包まれた物であろう。己はお前達の美に・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・もなく、まっしろな花をつけるこぶしの木もまるで咲かず、五月になってもたびたび霙がぐしゃぐしゃ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年播いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったの・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・何だか車のひびきが大へん遅く貨物列車らしかったのです。 そのとき、黒い東の山脈の上に何かちらっと黄いろな尖った変なかたちのものがあらわれました。梟どもは俄にざわっとしました。二十四日の黄金の角、鎌の形の月だったのです。忽ちすうっと昇って・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・あちこち役所へ果物だの野菜だの納めているんだから。」「そうかねえ。とにかく地図はこれだよ。」 わたくしは戸口に買って置いた地図をひろげました。「ミーロも呼んでもいいかい。」「誰か来てるのか、いいとも。」「ミーロ、おいで、・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・一九三〇年の鉄道貨物は二億八千百万トンになった。その事実はシベリアを通ってここまで来る間、少し主だった駅に、どの位の貨車が引きこまれ積荷の用意をし、又は白墨でいろんな符牒を書かれ出発を待って引こみ線にいたかを思い出すだけで証明される。この陸・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
出典:青空文庫