・・・これから歩かねばならないアパートまで十町の夜更けの道のいやな暗さを想うと、足が進まないのである。カランカランという踏切の音を背中に聴きながら、寝しずまった住宅地を通り抜けると、もはや門燈のにぶい光もなく道はいきなりずり落ちたような暗さでそこ・・・ 織田作之助 「道」
・・・僕はあわててしまい、あがり湯のカランのまえにしゃがんで石鹸をてのひらに塗り無数の泡を作った。よほどあわてていたものとみえる。はっと気づいたけれど、僕はそれでもわざとゆっくり、カランから湯を出して、てのひらの泡を洗いおとし、湯槽へはいった。・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・湯槽にはいったまま腕をのばし、水道のカランをひねって、備付けのアルミニウムのコップで水を幾杯も幾杯も飲んだ。「おお、たくさん飲めや。」老婆は、皺の口をほころばせて笑い、うしろから少女を応援するようにして言うのである。「精出して飲まんと、・・・ 太宰治 「美少女」
・・・棍棒が倒れるとカランカランという音がして、それが小屋の中から静かな園内へ響き渡る。リップ・ヴァン・ウィンクルの話を思い出しながら外へ出る。木のこずえにとまった一羽の鴉が頭を傾けて黙ってこっちを見ていた。……ゴロゴロ、カランカランという音が思・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 十一月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より〕 この絵葉書をみたら、昔ここへ来た時のことを思い出し、空気のかわいたカランとした感じがとらえられていると思いました。 今日セルとメリンス襦袢がつきました。庭の青桐や・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫