・・・嬉しやと己も走り上りて其処に至れば、眼の前のありさま忽ち変りて、山の姿、樹立の態も凡ならず面白く見ゆるが中に、小き家の棟二つ三つ現わる。名にのみ聞きし石竜山の観音を今ぞ拝み奉ると、先ず境内に入りて足を駐めつ、打仰ぎて四辺を見るに、高さはおよ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・「私は今でもちっとも変りません。*********心積りです。」とはっきりと答えた。裁判長は苦りきった顔をした。妹はそして椅子に坐る拍子に、何故か振りかえって、お母さんの顔をちらッと見た。母は後で、その時はあ――あ、失敗ったと思ったと、元気・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・その代り今度来たら話す」「――もう来ないよ。その手に乗るもんか」 女は女体を振っておおげさに笑った。龍介は不快になった。そして女が酒を飲んだりしているのをだまって腰をかけたまま見下していた。首にぬってあるお白粉がむらになって、かえっ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席の憲法恥をかかすべからずと強いられてやっと受ける手頭のわけもなく顫え半ば吸物椀の上へ篠を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴り、めんこ、剣玉、べい独楽というふうに、あるものははやりあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちゃの類までが時につれて移り変わりつつある。私はまた、二人の子供の性質の相違をも考えるようになった。正直で・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」 それが娘の心持ちだった。その時、お徳はこんなこともつけたして言った。「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになったと見えますよ。も・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・――その代り宿屋なんぞのないということははじめから承知の上なんでしたけれど、さあ、船から上ってそこらの家へ頼んでみると、はたしてみんな断ってしまうでしょう。困ったんですよ」 婦人は微笑む。「それでしかたがないもんだから、とうとのこの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・あなたでも同じですけれど、こんなになると、情合はまったく本当の親子と変りませんわ」「それだのにこの夏には、あの人の話はちょっとも出ませんでしたね」「そうでしたかね。おや、そうだったかしら」「そして私の事はもうすっかりあの人に話し・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・まくらの上でちょっと頭さえ動かせば、目に見える景色が赤、黄、緑、青、鳩羽というように変わりました。冬になって木々のこずえが、銀色の葉でも連ねたように霜で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・そして、皆は彼女をスバーと呼ぶ代りに、自分丈はスと呼んで、親しい心持を表した積りでいたのです。 スバーは、いつでもタマリンドの下に坐るのがきまりでした。プラタプは少し離れて、釣糸を垂れる。彼は檳榔子を少し持って来ました。スバーが、それを・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫