・・・種子が間隔を正しくまっすぐになった時はうれしかった。いまに芽を出せばその通り青く見えるんだ。学校の田のなかにはきっとひばりの巣が三つ四つある。実習している間になんべんも降りたのだ。けれども飛びあがるところはつい見なかった。ひばりは降りるとき・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・私はせわしくそれをとめて、二つの足あとの間隔をはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけて取ろうとしている人もありましたし、も少しのところでこわした人もありました。 まだ上流の方にまた別のがあると、一人・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい。みちをあるいて黄金いろの雲母のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花崗岩に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度々になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一度この高原・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・烏の大尉の部下が十八隻、順々に飛びあがって大尉に続いてきちんと間隔をとって進みました。 それから戦闘艦隊が三十二隻、次々に出発し、その次に大監督の大艦長が厳かに舞いあがりました。 そのときはもうまっ先の烏の大尉は、四へんほど空で螺旋・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・実にまっすぐに実に間隔正しくそれを掘ったのでした。虔十の兄さんがそこへ一本ずつ苗を植えて行きました。 その時野原の北側に畑を有っている平二がきせるをくわえてふところ手をして寒そうに肩をすぼめてやって来ました。平二は百姓も少しはしていまし・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・その時ネネムは、ふともっと向うを見ますと、大抵五間隔きぐらいに、あくびをしたりうでぐみをしたり、ぼんやり立っているものがまだまだたくさん続いています。そこでネネムが云いました。「一寸待て。まだ向うにも監督が沢山居るようだ。よろしい。順ぐ・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・「イデェオロギーが情緒感覚の生活にまで泌みわたって、これを支配し変革する」ことがなければプロレタリア文学は真の芸術であり得ないという片上伸の主張とそのためのたたかいを著者は、同情と批判をもって跡づけている。 この初期の二つの評論にはっき・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・だから、いきなり新宿のカフェーであばずれかかった女給としておふみが現れたとき、観客は少し唐突に感じるし、どこかそのような呈出に平俗さを感じる。このことは、例えば、待合で食い逃げをした客にのこされたとき、おふみが「よかったねえ!」と艶歌師の芳・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・高圧線のヤグラが一定の間隔をおいてかなたへ。――いそいでもう一方を見たら、電線は鉄道線路を越えて、再びヒンデンブルグの前髪のような黒い密林のかなたへ遠くツグミの群がとび立った。今シベリアを寂しい曠野と誰が云うことが出来よう。 エカテリン・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・のイレーネは長い冬から突然芽立って来たばかりの蕾のような感情の猛烈さ、程よいという表現を知らない荒っぽさで、父への愛、母への愛の自分で知らない嫉妬にめくらになるのだが、私は一人の観客としてこの映画に堪能しないものをのこされた。芸術的な感銘で・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
出典:青空文庫