・・・「この札は、栗島という一等看護卒が出したやつなんだ。俺れゃちゃんと覚えとる。五円札を出したんは、あいつだけなんだから、あいつがきっと何かやったんだな。」 彼は、自然さをよそおいつゝ人の耳によく刻みこまれるように、わざと大きな声を出した。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ こう言って、看護婦なぞの往ったり来たりする庭の向うの方から一人の男を連れて来た。新たに医学校を卒業したばかりかと思われるような若者であった。蜂谷はその初々しく含羞んだような若者をおげんの前まで連れて来た。「小山さん、これが私のとこ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ つぎには、これは築地の、市の施療院でのことですが、その病院では、当番の鈴木、上与那原両海軍軍医少佐以下の沈着なしょちで、火が来るまえに、看護婦たちにたん架をかつがせなどして、すべての患者を裏手のうめ立て地なぞへうつしておいたのですが、・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・長兄が来て、すぐに看護婦を雇い、お友だちもだんだん集り、私も心強くなりましたが、長兄が見えるまでの二晩は、いま思っても地獄のような気がいたします。暗い電気の下で兄は、私にあちこちの引き出しをあけさせ、いろいろの手紙や、ノオトブックを破り棄て・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・風邪で三日ほど寝ては、病床閑語。二時間の旅をしては、芭蕉みたいな旅日記。それから、面白くも楽しくも、なんともない、創作にあらざる小説。これが、日本の文壇の現状のようである。苦悩を知らざる苦悩者の数のおびただしさよ。私は今迄、自己を語る場合に・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・今度も偶然な吻合で、ちょうど妻が子供を連れて出かけるところであったが、三毛の様子がどうも変であったから少し外出を見合わして看護させた。納戸のすみの薄暗い所へいつかの行李を置いてその中に寝かせ、そしてそろそろ腹をなでてやるとはげしく咽喉を鳴ら・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの一二枚の著替えしかもっていなかったところから、病気が長引くとみて、必要なものだけひと鞄東京の宅から送らせて、当分この町に滞在するつもりであったが、嫂も看護に行っていて、留守宅には女中が二人い・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・然し、私には、如何にも強そうなその体格と、肩を怒らして大声に話す漢語交りの物云いとで、立派な大人のように思われた。「先生、何の御用で御座います。」「怪しからん、庭に狐が居る、乃公が弓を引いた響に、崖の熊笹の中から驚いて飛出した。あの・・・ 永井荷風 「狐」
・・・服装のみならず、その容貌もまた東京の町のいずこにも見られるようなもので、即ち、看護婦、派出婦、下婢、女給、女車掌、女店員など、地方からこの首都に集って来る若い女の顔である。現代民衆的婦人の顔とでも言うべきものであろう。この顔にはいろいろの種・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・男もこれほど女の赤心が眼の前へ証拠立てられる以上、普通の軽薄な売女同様の観をなして、女の貞節を今まで疑っていたのを後悔したものと見えて、再びもとの夫婦に立ち帰って、病妻の看護に身を委ねたというのがモーパサンの小説の筋ですが、男の疑も好い加減・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫