・・・それが何故か遠藤には、頭に毫光でもかかっているように、厳かな感じを起させました。「御嬢さん、御嬢さん」 遠藤は椅子へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶったなり、何とも口を開きません。「・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・というやつがあって、誰も漢字に翻訳することができなかった。それでも結局「修善寺野田屋支店」だろうということになったが、こんな和文漢訳の問題が出ればどこの学校の受験者だって落第するにきまっている。 通信部は、日暮れ近くなって閉じた。あのい・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・私たちは体をもまれるように感じながらもうまくその大波をやりすごすことだけは出来たのでした。三人はようやく安心して泳ぎながら顔を見合せてにこにこしました。そして波が行ってしまうと三人ながら泳ぎをやめてもとのように底の砂の上に立とうとしました。・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・無理に早く起された人の常として、ひどい不幸を抱いているような感じがする。 食堂では珈琲を煮ている。トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・クサカは知らぬ人の顔を怖れ、また何か身の上に不幸の来るらしい感じがするので、小さくなって、庭の隅に行って、木立の隙間から別荘を見て居た。 其処へレリヤは旅行の時に着る着物に着更えて出て来た。その着物は春の頃クサカが喰い裂いた茶色の着物で・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・きれぎれに頭に浮んで来る感じを後から後からときれぎれに歌ったって何も差支えがないじゃないか。一つに纏める必要が何処にあると言いたくなるね。B 君はそうすっと歌は永久に滅びないと云うのか。A おれは永久という言葉は嫌いだ。B 永久・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 立花も莞爾して、「どうせ、騙すくらいならと思って、外套の下へ隠して来ました。」「旨く行ったのね。」「旨く行きましたね。」「後で私を殺しても可いから、もうちと辛抱なさいよ。」「お稲さん。」「ええ。」となつかしい低・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 十 その中に最も人間に近く、頼母しく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃の上に、一個八角時計の、仰向けに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近けて差覗いたが、もの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
一 襖を開けて、旅館の女中が、「旦那、」 と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。「用かい。」 とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しが・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ 謹さんも莞爾して、「お話しなさい。」「難有う、」「さあ、こちらへ。」「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」「早速だ、おやおや。」「大分丁寧でございましょう。」「そんな皮肉を言・・・ 泉鏡花 「女客」
出典:青空文庫