「何しろこの頃は油断がならない。和田さえ芸者を知っているんだから。」 藤井と云う弁護士は、老酒の盃を干してから、大仰に一同の顔を見まわした。円卓のまわりを囲んでいるのは同じ学校の寄宿舎にいた、我々六人の中年者である。場所・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見る明らかにする一ことだった。常子は息を呑んだまま、しばらくは声を失ったように男の顔を見つめつづけた。男は髭を伸ばした上、別人のように窶れている。が、彼女を見ている瞳は確かに待ちに待・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・Mは毎年学校の水泳部に行っていたので、とにかくあたり前に泳ぐことを知っていましたが、私は横のし泳ぎを少しと、水の上に仰向けに浮くことを覚えたばかりですし、妹はようやく板を離れて二、三間泳ぐことが出来るだけなのです。 御覧なさい私たちは見・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・――茶の唐縮緬の帯、それよりも煙草に相応わないのは、東京のなにがし工業学校の金色の徽章のついた制帽で、巻莨ならまだしも、喫んでいるのが刻煙草である。 場所は、言った通り、城下から海岸の港へ通る二里余りの並木の途中、ちょうど真中処に、昔か・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・爪尖の沈むのが、釵の鸚鵡の白く羽うつがごとく、月光に微に光った。「御坊様、貴方は?」「ああ、山国の門附芸人、誇れば、魔法つかいと言いたいが、いかな、さまでの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品じゃ。」 坊主は、欄干に擬・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・分けて今年は暖さに枝垂れた黒髪はなお濃かで、中にも真中に、月光を浴びて漆のように高く立った火の見階子に、袖を掛けた柳の一本は瑠璃天井の階子段に、遊女の凭れた風情がある。 このあたりを、ちらほらと、そぞろ歩行の人通り。見附正面の総湯の門に・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩いから、十五と少しにしかならない。痩せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味をおんだ、誠に光沢の好い児であった・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・相思の恋人を余儀なく人の夫にして近くに見ておったという悲惨な経過をとった人が、ようやく春の恵みに逢うて、新しき生命を授けられ、梅花月光の契りを再びする事になったのはおとよの今宵だ。感きわまって泣くくらいのことではない。 おとよはただもう・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ でこぼこした道を踏みしめ、踏みしめ、僕は歩いていたが、街道を通る人かげがすべて僕の敵であるかのように思われた。月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。 なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ ある日、正ちゃんは、学校のないので、午前十一時ごろにやって来た。僕は大切な時間を取られるのが惜しかったので、いい加減に教えてすましてしまうと、「うちの芸者も先生に教えていただきたいと言います」と言い出した。「面倒くさいから・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫