・・・』『穴は大きい』『じゃア、後方にさがれ!』『かしこまりました!』て一心に僕は駆け出したんやだど倒れて夢中になった。気がついて見たら『しっかりせい、しつかりせい』と、独りの兵が僕をかかえて後送してくれとった。水が飲みたいんで水瓶の・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「のろけていやがれ、おめえはよッぽどうすのろ芸者だ。――どれ、見せろ」「よッぽどするでしょう?」抜いて出すのを受け取って見たが、鍍金らしいので、「馬鹿!」僕はまた叱りつけたようにそれをほうり出した。「しどい、わ」吉弥は真ッか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・樅は生えは生えまするが数年ならずして枯れてしまいます。ユトランドの荒地は今やこの強梗なる樹木をさえ養うに足るの養分を存しませんでした。 しかしダルガスの熱心はこれがために挫けませんでした。彼は天然はまた彼にこの難問題をも解決してくれるこ・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・年子は、北へゆく汽車の中に、ただひとり窓に凭って移り変わってゆく、冬枯れのさびしい景色に見とれている、自分を見いだしました。 東京を出るときには、にぎやかで、なんとなく明るく、美しい人たちもまじっていた車室の内は、遠く都をはなれるにした・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・そして、その芽が大きく伸びて、一本の木となった時分には、その木の親木は、もう、枯れていることもあります。またじょうぶでいることもあります。そんなことが、たび重なるにつれて、その木の子や、孫が地面上に殖えていって繁栄するのです。」と、お母さん・・・ 小川未明 「赤い実」
・・・自分にとって最も、美しい幻の如く、若やかな、そして熱い血の胸に躍った、なやましい日のつゞいた、憧がれ心地に途をさ迷った、二十時代を送ることは、たとえ、当時は、私の、一番生活の逆境時代にあったにかゝわらず、尚この悲しみとやるせなさのために、深・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
常に其の心は、南と北に憧がれる。 陰惨なペトログラードや、モスクワオの生活をするものは、南露西亜の自然と生活をどんなに慕うだろう。また、囚人の行くシベリヤをどんなに眼に描くだろう。彼等は憧がれなしには生きられない人々である。 ・・・ 小川未明 「北と南に憧がれる心」
・・・勝手にしやがれと、そっぽを向くより致し方がない。しかし、コテコテと白粉をつけていても、ふと鼻の横の小さなホクロを見つけてみれば、やはり昔なつかしい古女房である。 たとえば、この間、大阪も到頭こんな姿になり果てたのかと、いやらしい想いをし・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・しかし、このまま手ぶらで帰れば、咽から手の出るほどスキ焼きを待ちこがれている隊長の手が、狂暴に動き出して、半殺しの目に会わされるだろうことは地球が、まるい事実よりも明らかである。 そう思うと、二人の足は自然渋って来た。「撲られに帰る・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・銀の地に青や赤の七宝がおいてあり、美しい枯れた音がした。人びとのなかでは聞こえなくなり、夜更けの道で鳴り出すそれは、彼の心の象徴のように思えた。 ここでも町は、窓辺から見る風景のように、歩いている彼に展けてゆくのであった。 生まれて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫