・・・「貴翰拝誦。病気恢復のおもむきにてなによりのことと思います。土佐から帰って以来、仕事に追われ、見舞にも行けないが、病気がよくなればそれでいいと思っている。今日は十五日締切の小説で大童になっているところ。新ロマン派の君の小説が深沼氏の推讃・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私は或る期間、穴蔵の中で、陰鬱なる政治運動に加担していた。月のない夜、私ひとりだけ逃げた。残された仲間は、すべて、いのちを失った。私は、大地主の子である。転向者の苦悩? なにを言うのだ。あれほどたくみに裏切って、いまさら、ゆるされると思って・・・ 太宰治 「虚構の春」
昨年の夏、私は十年振りで故郷を見た。その時の事を、ことしの秋四十一枚の短篇にまとめ、「帰去来」という題を附けて、或る季刊冊子の編輯部に送った。その直後の事である。れいの、北さんと中畑さんとが、そろって三鷹の陋屋へ訪ねて来ら・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ああ、それはほんの短い期間だ。その期間をこそ大事になさい。必ず自身を汚してはならぬ。地上の分割に与るのは、それは学校を卒業したら、いやでも分割に与るのだ。商人にもなれます。編輯者にもなれます。役人にもなれます。けれども、神の玉座に神と並んで・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守りとおすのは、実に至難の事業であった。この後だって楽じゃない。こんな具合じゃ仕様が無い。また十何年か前のフネノフネ時代にかえったんでは意味が無い。戦争時代がまだよかったなん・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。誰も教えて呉れな・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ ――拝復。貴翰拝読いたしました。ひとにものを尋ねる時には、も少していねいな文章を書く事に致しましょう。小国民の教育をなさっている人が、これでは、いけないと思いました。 御質問に、まじめにお答え致します。私はいままで、ダダイズムを自・・・ 太宰治 「新郎」
・・・ そうして私は、リュックサックにたくさんのものをつめ込んで、ぼんやり故郷に帰還しました。 あの、遠くから聞えて来た幽かな、金槌の音が、不思議なくらい綺麗に私からミリタリズムの幻影を剥ぎとってくれて、もう再び、あの悲壮らしい厳粛らしい・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・けれども、成功者すなわち世の手本と仰がれるように、失敗者もまた、われらの亀鑑とするに足ると言ったら叱られるであろうか。人の振り見てわが振り直せ、とかいう諺さえあるようではないか。この世に無用の長物は見当らぬ。いわんや、その性善にして、その志・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ その会話に依って私は、男は帰還の航空兵である事、そうしてたったいま帰還して、昨夜この港町に着いて、彼の故郷はこの港町から三里ほど歩いて行かなければならぬ寒村であるから、ここで一休みして、夜が明けたらすぐに故郷の生家に向って出発するとい・・・ 太宰治 「母」
出典:青空文庫