・・・「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が今日に至るまで、何等断乎たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且珈琲店の給仕女たりし房子夫人が、……支那人たる貴下のために、万斛の同情無・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与の書籍もその中にまじり居り候節は不悪御赦し下され度候。」 これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本が焔になって立・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・通りすがりに覗いて見たら、ただある教室の黒板の上に幾何の図が一つ描き忘れてあった。幾何の図は彼が覗いたのを知ると、消されると思ったのに違いない。たちまち伸びたり縮んだりしながら、「次の時間に入用なのです。」と云った。 保吉はもと降り・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・始めは露国のプロレタリアのためにいかにも希望多く見えた革命も、現在までに収穫された結果から見るならば、大多数の民衆よりも、ブルジョア文化によって洗礼を受けた帰化的民衆によって収穫されている。そして大多数のプロレタリアは、帝政時代のそれと、あ・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急ね、さあ、貴下から。」 立花はあたかも死せるがごとし。「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」 正にこの声、確にその人、我が年紀十四の時から今に到るまで一日も忘れたことの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「憚り様ね。」「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」「何ね、」「貴下、そのを、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」 謹さんも莞爾して、「お話しなさい。」「難有う、」「さあ、こちらへ。」・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・差出人は誰でありますか。貴下が御当人なのですか。」 などと間伸のした、しかも際立って耳につく東京の調子で行る、……その本人は、受取口から見た処、二十四、五の青年で、羽織は着ずに、小倉の袴で、久留米らしい絣の袷、白い襯衣を手首で留めた、肥・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・いくら雪国でも、貴下様、もうこれ布子から単衣と飛びまする処を、今日あたりはどういたして、また襯衣に股引などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠を引覆しますような事でござりまして、ちょっと戸外へ出て御覧じませ。鼻も耳も吹切られそうで、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 旦那様、貴下が桔梗の花を嗅いでる処を御覧じゃりましたという、吉さんという植木屋の女房でございます。小体な暮しで共稼ぎ、使歩行やら草取やらに雇われて参るのが、稼の帰と見えまして、手甲脚絆で、貴方、鎌を提げましたなり、ちょこちょこと寄りま・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・「いえ、何も貴下、そんなことを。」 と幽かにいいて胸を圧えぬ。 時彦は頤のあたりまで、夜着の襟深く、仰向に枕して、眼細く天井を仰ぎながら、「塩断もしてるようだ。一昨日あたりから飯も食べないが、一体どういう了簡じゃ。」とい・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
出典:青空文庫