・・・我々の自己は、一々の実践的決断において、生死の立場に立っているのである、危機に立っているのである。我々の実践的決断は抽象的意識的自己の内より起るのではない。爾考えるのは、主語的論理の独断によるのである。私はこれについて多く論じた。 我々・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・私が或日先生を訪問してアウグスチヌスの近代語訳がないかとお聞きしたところ、先生はお前はなぜ古典語を学ばないかといわれた。私は日本人として古典語を学ぶのは中々困難であると申上げると、それでもお前と同クラスの岩元君はギリシャ語を読むではないかと・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・いや兎角く此道ではブレーキが利きにくいものだ。 だが、私は同時に、これと併行した外の考え方もしていた。 彼女は熱い鉄板の上に転がった蝋燭のように瘠せていた。未だ年にすれば沢山ある筈の黒髪は汚物や血で固められて、捨てられた棕櫚箒のよう・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「私から何か種々の事が聞きたいの? 私は今話すのが苦しいんだけれど、もしあんたが外の事をしないのなら、少し位話して上げてもいいわ」 私は真赤になった。畜生! 奴は根こそぎ俺を見抜いてしまやがった。再び私の体中を熱い戦慄が駈け抜けた。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ が、その顔には、鬼気があふれていた。 それっきり、安岡は病気になってしまった。その五、六日後から修学旅行であった。 深谷は修学旅行に、安岡は故郷に病を養いに帰った。 安岡は故郷のあらゆる医師の立ち会い診断でも病名が判然・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ」「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」「いや、話したろう。幾たびも話・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 中庭を隔てた対向の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女二個の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背を欄干にもたせ変えた時、二上り新内を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 人あるいはこの説を聞き、政府と人民と相遠ざかることあらば、気脈を通ぜずして、必ず不和を生ぜんという者あるべしといえども、ひっきょう、未だ思わざるの論のみ。余輩のいわゆる遠ざかるとは、たがいに遠隔して敵視するをいうに非ず、また敬してこれ・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・その策如何というに、朝夕主人の言行を厳重正格にして、家人を視ること他人の如くし、妻妾児孫をして己れに事うること奴隷の主君におけるが如くならしめ、あたかも一家の至尊には近づくべからず、その忌諱には触るべからず、俗にいえば殿様旦那様の御機嫌は損・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・今の文学者連中に聞き度いのは、よく人生に触れなきゃ不可と云う、其人生だ。作物を読んで、こりゃ何となく身に浸みるとか、こりゃ何となく急所に当らぬとかの区別はある。併しそれが直ちに人生に触れる触れぬの標準となるんなら、大変軽卒のわけじゃないか。・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
出典:青空文庫