・・・ 退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込んで、革鞄の口をかしりと啣えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊って、引緊めたと思う手応がありました。 真白な薄の穂か、窓へ散込んだ錦葉の一葉、散際の・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 振向いた運転手に、記者がちょっとてれながら云ったので、自動車はそのまま一軋りして進んだ。 沼津に向って、浦々の春遅き景色を馳らせる、……土地の人はと云う三津の浦を、いま浪打際とほとんどすれすれに通る処であった。しかし、これは廻り路・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・もやい綱が船の寝息のようにきしり、それを眠りつかせるように、静かな波のぽちゃぽちゃと舷側を叩く音が、暗い水面にきこえていた。「××さんはいないかよう!」 静かな空気を破って媚めいた女の声が先ほどから岸で呼んでいた。ぼんやりした燈りを・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ また、きしきしという軋りが聞えて、氷上蹄鉄を打ちつけられた馬が、氷を蹴る音がした。「来ているぞ。また、来ているぞ」 ワーシカは、二重硝子の窓に眼をよりつけるようにして、外をうかがった。「偉大なる転換の一年」を読んでいたシーシコ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・鉱車は、地底に這っている二本のレールを伝って、きし/\軋りながら移動した。 窮屈な坑道の荒い岩の肌から水滴がしたゝり落ちている。市三は、刀で斬られるように頸すじを脅かされつゝ奥へ進んだ。彼は親爺に代って運搬夫になった。そして、細い、たゆ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・隣の部屋からキンキン早すぎる回転の安蓄音器が、きしりわめく。私は、そこまで読んで、息もたえだえの思いであった。 ヘロインは、ふらふら立って鎧扉を押しあける。かっと烈日、どっと黄塵。からっ風が、ばたん、と入口のドアを開け放つ。つづいて、ち・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・その中を踏み散らして広い運動場を一回りするうちに、赤い日影が時計台を染めて賄所の井戸が威勢よくきしり始めるのであった。そのころある夜自分は妙な夢を見た。ちょうど運動場のようで、もっと広い草原の中をおぼろな月光を浴びて現ともなくさ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・「そら、夢の水車のきしりのような音」「ああそうだ。あの音だ。ピタゴラス派の天球運動の諧音です」「あら、なんだかまわりがぼんやり青白くなってきましたわ」「夜が明けるのでしょうか。いやはてな。おお立派だ。あなたの顔がはっきり見え・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・ 青ぞらはふるい ひかりはくだけ 風のきしり 陽は織れど かなし」 野ばらの木が赤い実から水晶の雫をポトポトこぼしながらしずかに歌いました。「にじはなみだち きらめきは織る ひかりのお・・・ 宮沢賢治 「虹の絵具皿」
・・・ 静々と車はきしり出す。声もなく、うなだれて見送人達の心よ。 見えがくれする金金具の車の裡に妹が居ると思えば不思議な淋しさと安らかな気持が渦巻き返る。 雨の裡を行く私の妹の柩。 たった一人立ちどまって頭を下げて呉れた人のあっ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
出典:青空文庫