・・・ と寂しそうに打傾く、面に映って、頸をかけ、黒繻子の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外は月の冴えたる気勢。カラカラと小刻に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。「心細いのが通り越して、気が変になっていたん・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた。「姉や、姉や、」と改めて呼びかけて、わずかに身を動かす背に・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・このまま、今度の帰省中転がってる従姉の家へ帰っても可いが、其処は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣は昨日済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日だし、好・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ トその壁の上を窓から覗いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺って、団扇の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚の樹が、その夜は妙に寂として気勢も聞えぬ。 鼠も寂莫と音を潜めた。…… 八 台所と、この上框とを・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ と途轍もない奇声を揚げた。 同時に、うしろ向きの赤い袖が飜って、頭目は掌を口に当てた、声を圧えたのではない、笛を含んだらしい。ヒュウ、ヒュウと響くと、たちまち静に、粛々として続いて行く。 すぐに、山の根に取着いた。が草深い雑木・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・村長の爺様が、突然七八歳の小児のような奇声を上げて、(やあれ、見やれ、鼠が車を曳――とんとお話さ、話のようでございましてな。」「やあ、しばらく!」 記者が、思わず声を掛けたのはこの時であった―― 肩も胸も寄せながら、・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた――渠の帰省談の中の同伴は、その容色よしの従姉なのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣の留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・夜を降り通した雨は、又昼を降り通すべき気勢である。 さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てて、雨は篠を突いているのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらいの水だ。いま五・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・例のスグカエレであるから、早速舎監に話をして即日帰省した。何事が起ったかと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇の家の有様は意外に静かだ。台所で家中夕飯時であったが、ただそこに母が見えない許り、何の変った様子もない。僕は台所へは顔も出さず、・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・歿後遺文を整理して偶然初度の原稿を検するに及んで、世間に発表した既成の製作と最始の書き卸しと文章の調子や匂いや味いがまるで別人であるように違ってるのを発見し、二葉亭の五分も隙がない一字の増減をすら許さない完璧の文章は全く千鍜万錬の結果に外な・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫