・・・ と同時に、ふと、今まで笑っていたような事柄が、すべて、きゅうに、笑うことができなくなったような心持になった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうしてこの現在の心持は、新らしい詩の真の精神を、初めて私に味わせた。・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・――思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を刎飛んで、田打蟹が、ぼろぼろ打つでしゅ、泡ほどの砂の沫を被って転がって遁げる時、口惜しさに、奴の穿いた、奢った長靴、丹精に磨いた自慢の向脛へ、この唾をかッと吐掛けたれば、この一呪詛によって、あの、ご秘・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ お美津、お喜代は、枕の両傍へちょいと屈んで、きゅうッきゅうッと真直に引直し、小宮山に挨拶をして、廊下の外へ。 ここへ例の女の肩に手弱やかな片手を掛け、悩ましい体を、少し倚懸り、下に浴衣、上へ繻子の襟の掛った、縞物の、白粉垢に冷たそ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・「武ちゃん、やきゅうを しない?」と、ふいに 年ちゃんが かたを たたきました。「いま、これを うちへ おいて くるからね。」と、武ちゃんは こたえました。「おばあさん、やはり いませんよ。」と いうと、おばあさんは・・・ 小川未明 「秋が きました」
・・・つね子ちゃんは きゅうに おちちが こいしく なりました。「あたしにも のましてよ。」と、おかおを だすと、赤ちゃんが、「ううん。」と いって、おこりました。「いじを つついては いけません。」と、おかあさんが おっ・・・ 小川未明 「おっぱい」
・・・ちょうど子どものようにめずらしくて、いろいろにしてみたかったのと、もう一つは、ふだんかけつけないのに、きゅうにめがねをかけて、ようすがかわったからでありました。 おばあさんは、かけていためがねを、またはずしました。それをたなの上の目ざま・・・ 小川未明 「月夜とめがね」
・・・この困憊した体を海ぎわまで持って行って、どうした機でフラフラと死ぬ気にならないものでもないと思うと、きゅうに怖しくなって足が竦んだ。 私は暗い路ばたに悄り佇んで、独り涙含んでいたが、ふと人通りの途絶えた向うから車の轍が聞えて、提灯の火が・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見てたのしんだほど看板が見られたわけだったが、浜子は角座の隣りの果物屋の角をきゅうに千日前の方へ折れて、眼鏡屋の鏡の前で、浴衣の襟を直しました。浜子は蛇ノ目傘の模様の・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ ところが、嫁ぎ先の寺田屋へ着いてみると姑のお定はなにか思ってかきゅうに頭痛を触れて、祝言の席へも顔を見せない、お定は寺田屋の後妻で新郎の伊助には継母だ。けれども、よしんば生さぬ仲にせよ、男親がすでに故人である以上、誰よりもまずこの席に・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ 学校へはきゅうに郷里に不幸ができて帰ることになったからとFに言わせて、学校道具を持ってこさせた。昼のご飯を運んできた茶店の娘も残っていて手伝ったが、私の腹の底は視透かしているらしいのだが、口へ出しては言いださなかった。寺の老和尚さんも・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫