・・・ の歩いている村の道を、二、三人物食いながら来かかる子供を見て、わたくしは土地の名と海の遠さとを尋ねた。 海まではまだなかなかあるそうである。そしてここは原木といい、あのお寺は妙行寺と呼ばれることを教えられた。 寺の太鼓が鳴り出・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ しかしわたしはこれがために幾多の日子と紙料とを徒費したことを悔いていない。わたしは平生草稿をつくるに必ず石州製の生紙を選んで用いている。西洋紙にあらざるわたしの草稿は、反古となせば家の塵を掃うはたきを作るによろしく、揉み柔げて厠に持ち・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・収穫季の終が来て蛇が閉塞して畢うと鼠は蕎麦や籾の俵を食い破る。それでも猫は飼わなかった。太十が犬だけは自分で世話をした。壊れた箱へ藁しびを入れてそれを囲炉裏の側へ置いてやった。子犬はそれへくるまって寝た。霜の白い朝彼は起きて屹度犬の箱を覗く・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・聖徒に向って鞭を加えたる非の恐しきは、鞭てるものの身に跳ね返る罰なきに、自らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然として骨に徹する寒さを知・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。 桓武天皇の御宇に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である。しかし赤いぜんざいと京都とはとうてい離されない。・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・犬神に憑かれたものは肉ばかりを食い、猫神に憑かれたものは魚ばかり食って生活している。 そうした特異な部落を称して、この辺の人々は「憑き村」と呼び、一切の交際を避けて忌み嫌った。「憑き村」の人々は、年に一度、月のない闇夜を選んで祭礼をする・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 彼は、うまそうにそれを食い始めた。 もし安岡が立っているか、うずくまっているかしたら彼は倒れたに違いなかった。が、幸いにして彼は腹這っていたから、それ以上に倒れることはなかった。 が、彼は叫ぶまいとして、いきなり地面に口を押し・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・河豚は水面と海底との中間を泳いでいるし、食い意地が張っているので、エサをつけた糸をたらすとすぐに食いつく。しかし、ほんとうにおいしい河豚は、海底深くいる底河豚だ。河豚は一枚歯で、すごく力が強く貝殻でも食い割ってしまう。したがって、海底での貝・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 願くは我が旧里中津の士民も、今より活眼を開て、まず洋学に従事し、自から労して自から食い、人の自由を妨げずして我が自由を達し、脩徳開智、鄙吝の心を却掃し、家内安全、天下富強の趣意を了解せらるべし。人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
出典:青空文庫