・・・ 夕闇の底に、かえってくっきりとみえる野菊の一とむらがあるところで、彼女はしゃがんでそれをつみとりながら、顔をあおのけていった。「――青井は未来の代議士だって、妾も、信じますわ」 こいつ、ぱっぱ女学生だ――野菊の花をまさぐりなが・・・ 徳永直 「白い道」
・・・毛繻子のくけ紐は白粉の上にくっきりと強い太い線を描いて居る。削った長い木の杖を斜について危げに其足駄を運んで行く。上部は荷物と爪折笠との為めに図抜けて大きいにも拘らず、足がすっとこけて居る。彼等の此の異様な姿がぞろぞろと続く時其なかにお石が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・するとある年の秋、水のようにつめたいすきとおる風が、柏の枯れ葉をさらさら鳴らし、岩手山の銀の冠には、雲の影がくっきり黒くうつっている日でした。 四人の、けらを着た百姓たちが、山刀や三本鍬や唐鍬や、すべて山と野原の武器を堅くからだにしばり・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・ さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。「ぼくたちも降りて見ようか。・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・五 イーハトーヴ火山局 ブドリが、クーボー大博士からもらった名刺のあて名をたずねて、やっと着いたところは大きな茶いろの建物で、うしろには房のような形をした高い柱が夜のそらにくっきり白く立っておりました。ブドリは玄関に上がって・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・同時に、その評論をめぐって、そこに猟犬のように群がりたかって、わたしを噛みやぶり泥の中へころがすことで、プロレタリア文学運動そのものを泥にまびらす役割をはたした人々の動きかた――政治性も、くっきりと描きだすことができる。それは、かみかかった・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・唇はほほえみ、つぶった双眼の縁は、溶きもしない鮮やかな草色に近い青緑色で、くっきりの西洋絵具を塗ったように隈どられて居る。 見まい、見まいとしても顔の見える恐ろしさに、私は激しい叫び声を立てて一散に逃げようとした。狭いところを抜けようと・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ うっとりとした彼の目には、拭きこんだ硝子越しに、葉をふるい落した冬の欅の優美な細枝が、くっきり青空に浮いているのが見えた。ほんの僅かな白雲が微に流れて端の枝を掠め、次の枝の陰になり、繊細な黒レースのような真中の濃い網めを通って彼方にゆ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・特に京都でそういう印象を得たということは、京都の樹木の種類が多いことを示すとともに、また一々の樹の特徴が他の地方でよりもくっきりと出ていることを示すのであろう。椎の樹は武蔵野の原始林を構成していたといわれるが、しかし五月ごろの東山に黄金色に・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
・・・それを思いやり、そういう人の気をも兼ねるということになれば、作中の人物をくっきりと浮き彫りにし、それぞれにあらわな特徴を与えるということは、ちょっとやりにくくなる。どの人物の言行にも、はっきりと片づいた動機づけをすることができない。それが作・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫