・・・私は、それについても、地平はだめだ、芸術家は、いつでも堂々としていたい、鼠のように逃げぐち計りを捜しているのでは、将来の大成がむずかしい、僕もそのうち、支那服を着てみるつもりである、など、ああ、そのころは、お互いが、まだまだ仕合せであったの・・・ 太宰治 「喝采」
・・・細君は珍しいおとなしい女で、口喧ましい夫にかしずく様はむしろ人の同情をひくくらいで、ついぞ近所なぞで愚痴をこぼした事もない。従ってこの変った家庭の成立についても細君の元の身分についても、何事も確かな事は聞かれなかった。今は黒田も地方へ行って・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・無口ではなかったけれど、ぶつくさした愚痴や小言は口にしなかった。常磐津の名取りで、許しの書きつけや何かを、みんなで芸者たちの腕の批評をしていたとき、お絹が道太や辰之助に見せたことがあった。「なるほどね、二流三流どこは、こんなことをして田・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・のみならずむやみに泣いて愚痴ばかり並べている。あの山を上るところなどは一起一仆ことごとく誇張と虚偽である。鬘の上から水などを何杯浴びたって、ちっとも同情は起らない。あれを真面目に見ているのは、虚偽の因襲に囚われた愚かな見物である。○立ち・・・ 夏目漱石 「明治座の所感を虚子君に問れて」
・・・ 死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう、しかし余は今度この人間の愚痴というものの中に、人情の味のあること・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・もう愚痴は溢さない約束でしたッけね。ほほほほほほ」と、淋しく笑ッた。「花魁、花魁」と、お熊がまたしても室外から声をかける。「今じきに行くよ」と、吉里も今度は優しく言う。お熊は何も言わないであちらへ行ッた。「ちょいと行ッて来ちゃア・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・或は市中公会等の席にて旧套の門閥流を通用せしめざるは無論なれども、家に帰れば老人の口碑も聞き細君の愚痴も喧しきがために、残夢まさに醒めんとしてまた間眠するの状なきにあらず。これ等の事情をもって考るに、今の成行きにて事変なければ格別なれども、・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・縁語を用いたる句、春雨や身にふる頭巾著たりけりつかみ取て心の闇の螢哉半日の閑を榎や蝉の声出代や春さめ/″\と古葛籠近道へ出てうれし野のつゝじかな愚痴無智のあま酒つくる松が岡蝸牛や其角文字のにじり書橘のかは・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・耕助はおどろいて口をあいて上を見ましたら、いつか木の上に三郎がのぼっていて、なんだか少しわらいながらじぶんも袖ぐちで顔をふいていたのです。「わあい、又三郎何する。」耕助はうらめしそうに木を見あげました。「風が吹いたんだい。」三郎は上・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」「そうでないよ。大きなことだよ。」がやが・・・ 宮沢賢治 「どんぐりと山猫」
出典:青空文庫