・・・軽く興奮してほてる顔をさらに強い西日が照りつけて、ちょうど酒にでも微酔したような心持ちで、そしてからだが珍しく軽快で腹がいいぐあいにへっていた。 停車場まで来ると汽車はいま出たばかりで、次の田端止まりまでは一時間も待たなければならなかっ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・人生行路に横たわる幾多の陥穽に対する警戒の芽生えを植付けてくれたような気がする。他人の軽微な苦痛を己が享楽の小杯に盛ろうとする不思議な心理がいかなる善良な人々の心の奧にも潜在することを教えてくれたようである。それから、冒険というものに対する・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・売り子は美しい若い女で軽快な仏語をさえずっていた。 十 ミラノからベルリン五月五日 七時二十分発ベルリン行きの D-Zug に乗る。うっかりバーゼル止まりの客車へ乗り込んでいたが、車掌に注意されてあわててベル・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 津田君の絵には、どのような軽快な種類のものでも一種の重々しいところがある。戯れに描いた漫画風のものにまでもそういう気分が現われている。その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、却って無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見す・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるところ、われわれの目には富商の隠宅か或は旗亭かとも思われた位で、今日の紳士が好んで築造する邸宅とは全く趣を異にしたものであった。 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍・・・ 永井荷風 「上野」
・・・しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に越すものはあるまい。 端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・そして真中に食卓を据えた。長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に葭戸を立てた。二畳に阿久がいて、お銚子だの煮物だのを運んだ。さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄に胡瓜の香物を酒の肴に、干・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・「いやこれは夜中はなはだ失礼で……実は近頃この界隈が非常に物騒なので、警察でも非常に厳重に警戒をしますので――ちょうど御門が開いておって、何か出て行ったような按排でしたから、もしやと思ってちょっと御注意をしたのですが……」 余はよう・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・一致と云うと我の意識と彼の意識があって、この二つのものが合して一となると云う意味でありますが、それは一致せぬ前に言うべき事で、すでに一致した以上は一もなく二もない訳でありますからして、この境界に入ればすでに普通の人間の状態を離れて、物我の上・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・我輩の下宿の体裁は前回申し述べたごとくすこぶる憐れっぽい始末だが、そういう境界に澄まし返って三十代の顔子然としていられるかと君方はきっと聞くに違いない。聞かなくっても聞く事にしないとこっちが不都合だからまず聞くと認める。ところで我輩が君らに・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
出典:青空文庫