・・・ このうす紫色の、花の放つ高い香気は、なんとなく彼女の心を悲しませずにいませんでした。「冬を前にして、なんと私たちは、悪い時代に生まれてこなければならなかったのだろう。」 彼女が、こういっているのを、だまってきいていた野菊は、・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・勇敢に清新な人間的の理想に燃える芸術が、百難を排して尚お興起するのを否むことができない。また、そうなくてはならない。 人間が生存する限り、生長が、社会のすべてに期待される。けれど、今日は、芸術――広く言えば文壇が、特に、私的生活と複雑な・・・ 小川未明 「正に芸術の試煉期」
・・・はつらつたる感情や、勇気や、光輝というようなものは、創生の喜ぶに伴うものです。しからざるかぎり、たとえ、積極的には、間違ったことを伝えなくとも、そこに、喜びがなく、たゞあるものが、怠屈ばかりであったら、それは、何も与えなかったことになるばか・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・、頼まれもせぬのに八尾の田舎まで私を迎えに来てくれたのも、またうまの合わぬ浜子に煙たがられるのも承知で何かと円団治の家の世話を焼きに来るのも、ただの親切だけでなく、自分ではそれと気づかぬ何か残酷めいた好奇心に釣られてのことかもしれません。だ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ひそかに抱いていた性的なものへの嫌悪に逆に作用された捨鉢な好奇心からだった。自虐めいたいやな気持で楽天地から出てきたとたん、思いがけなくぱったり紀代子に出くわしてしまった。変な好奇心からミイラなどを見てきたのを見抜かれたとみるみる赧くなった・・・ 織田作之助 「雨」
・・・例えば作家が著作集を出す時、後記というものを書くけれど、それは如何ほど謙遜してみたところで、ともかく上梓して世に出す以上、多少の己惚れが無くてはかなうまいと思うが、どうであろうか。恥しいものですと断ってみても、無理矢理本屋に原稿を持っていか・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・ それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レッテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所というもの、出来ていたのであった。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打ったかとしか思われない、ひ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・僕たちはいつも強い好奇心で、その人の謙遜な身なりを嗅ぎ、その人の謙遜な話に聞き惚れた。しかしそんなに思っていても僕達は一度も島へ行ったことがなかった。ある年の夏その島の一つに赤痢が流行ったことがあった。近くの島だったので病人を入れるバラック・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・私は微かな好奇心と一種馴染の気持から彼らを殺したりはしなかった。また夏の頃のように猛だけしい蠅捕り蜘蛛がやって来るのでもなかった。そうした外敵からは彼らは安全であったと言えるのである。しかし毎日たいてい二匹宛ほどの彼らがなくなっていった。そ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・柔和に構えて、チンとすましていられると、その剣のある眼つきが却って威を示し、何処の高貴のお部屋様かと受取られるところもある。「イイえどう致しまして」とお政は言ったぎり、伏目になって助の頭を撫でている。母はちょっと助を見たが、お世辞にも孫・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫