・・・下宿の主婦は、荒物屋には若い好い後妻が来たと喜んで話した。自分も新しい主婦の晴れやかな顔を見て、何となくこの店に一縷の明るい光がさすように思うた。 今年の夏、荒物屋には幼い可愛い顔が一つ増した。心よく晴れた夕方など、亭主はこの幼時を大事・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・この俳諧がこの国の基礎科学にドイツ人の及ばない独自な光彩を与え、この国の芸術に特有な新鮮味を添えているのではないかとも思われる。たとえば近代物理学の領域を風靡した「波動力学」のごときもその最初の骨組みはフランスの一貴族学者ド・ブローリーがす・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・「――よろしく、ご交際、おねがいします」 深水がたもとから煙草をだして点けた。三吉もその火で吸いつけようとするが、手がふるえていて、うまく点かない。点かないながら――ゴコウサイ――というのが、どきんと頭にのこっている。「まず、こ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 唯不幸にして自分は現代の政治家と交らなかったためまだ一度もあの貸座敷然たる松本楼に登る機会がなかったが、しかし交際と称する浮世の義理は自分にも炎天にフロックコオトをつけさせ帝国ホテルや精養軒や交詢社の階段を昇降させた。有楽座帝国劇場歌・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・随って彼の交際する範囲は三四十代の壮者に限られて居るのである。以前奉公して居た頃も稀には若い衆に跟いて夜遊びに出ることもあった。彼も他人のするように手拭かぶって跟いて行った。帰る時にはぽさぽさとして独であった。若い衆はみんな自分の女を見つけ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
昨日は失敬。こう続けざまに芝居を見るのは私の生涯において未曾有の珍象ですが、私が、私に固有な因循極まる在来の軌道をぐれ出して、ちょっとでも陽気な御交際をするのは全くあなたのせいですよ。それにも飽き足らず、この上相撲へ連れて・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・しかもわれらが斃れる時、われらの烟突が西洋の烟突の如く盛んな烟りを吐き、われらの汽車が西洋の汽車の如く広い鉄軌を走り、われらの資本が公債となって西洋に流用せられ、われらの研究と発明と精神事業が畏敬を以て西洋に迎えらるるや否やは、どう己惚れて・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・ 我輩は亭主に自分の身体はいつ移れるのかと聞いたら今日でもよいというから、午飯の後妻君と共に新宅へ引き移る事にした。 神さんと二人で午飯を食っていると亭主が代言人の所から帰って来て神さんに、御前一つ手紙をかいて差配の所へ郵便でやれ書・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・と呼び、一切の交際を避けて忌み嫌った。「憑き村」の人々は、年に一度、月のない闇夜を選んで祭礼をする。その祭の様子は、彼ら以外の普通の人には全く見えない。稀れに見て来た人があっても、なぜか口をつぐんで話をしない。彼らは特殊の魔力を有し、所因の・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・「だから、だんだん交際人がなくなるんさ。平田さんが来る時分には、あんなに仲よくしていた小万さんでさえ、もうとうから交際ないんだよ」「あんな義理を知らない人と、誰が交際うものかね。私なんか今怒ッちゃア損だから、我慢して口を利いてるんさ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫