・・・おらが家の花も咲いたる番茶かな 先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・―― 当日は烈しい黄塵だった。黄塵とは蒙古の春風の北京へ運んで来る砂埃りである。「順天時報」の記事によれば、当日の黄塵は十数年来未だ嘗見ないところであり、「五歩の外に正陽門を仰ぐも、すでに門楼を見るべからず」と言うのであるから、よほど烈・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・けれども保吉の内生命には、――彼の芸術的情熱には畢に路傍の行人である。その路傍の行人のために自己発展の機会を失うのは、――畜生、この論理は危険である! 保吉は突然身震いをしながら、クッションの上に身を起した。今もまたトンネルを通り抜けた・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・「夏目さんの『行人』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずに膳を下げさせるところがあるでしょう。あすこを牢の中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」 彼は人懐い笑顔をしながら、そんなことも話していった・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・すでに求め終わっているのなら幸甚である。 A兄 くたびれたろうな。もう僕も饒舌はいいかげんにする。兄は僕が創作ができないのをどうしたというが、あの「宣言一つ」一つを吐き出すまでにもいいかげん胸がつかえていたのでできなかったのだ。僕の・・・ 有島武郎 「片信」
・・・残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚る、荒神も少くはありません。 ばかりでない。果ては、その中から、別に、綺麗な絵の蝋燭を一挺抜くと、それへ火を移して、銀簪の耳に透す。まずどうするとお思い・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・と呼び立つれど、土塀石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。 八田巡査は、声をはげまし、「放さんか!」 決然として振り払えば、力かなわで手を放てる、咄嵯に巡査は一躍して、棄つるがごとく身を投ぜり。お香はハッと絶え入りぬ。あわれ八田・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・今なら女優というような眩しい粉黛を凝らした島田夫人の美装は行人の眼を集中し、番町女王としての艶名は隠れなかった。良人沼南と同伴でない時はイツデモ小間使をお伴につれていたが、その頃流行した前髪を切って前額に垂らした束髪で、嬌態を作って桃色の小・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・文人が公民権が無くとも、代議士は愚か区会議員の選挙権が無くとも、社会的には公人と看做されないで親族の寄合いに一人前の待遇を受けなくとも文人自身からして不思議と思わなかった。寧ろ文人としては社会から無能者扱いを受けるのを当然の事として、残念と・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
出典:青空文庫