・・・世界中捜しても見附からないはずだ。乞食の靴の中に這入っている。誰にだって分からなかろう。誰にだってなあ。ははは。何百万と云う貨物が靴の中にあるのだ。」 一本腕は無意識に手をさし伸べて、爺いさんの左の手に飛び附こうとした。「手を引っ込・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・主人。誰が。家来。何だかわたくしも存じません。厭らしい奴が大勢でございます。主人。乞食かい。家来。如何でしょうか。主人。そんなら庭から往来へ出る処の戸を閉めてしまって、お前はもう寝るが好い。己には構わないでも好いから。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・きっと乞食が取ったか、この近辺の子が持って往たのだろう。これだから日本は困るというのだ。社会の公徳というものが少しも行われて居らぬ。西洋の話を聞くと公園の真中に草花がつくってある。それには垣も囲いもなんにもない。多くの人はその傍を散歩して居・・・ 正岡子規 「墓」
・・・人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。」「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バク・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
だいぶ古いことですが、イギリスの『タイムズ』という一流新聞の文芸附録に『乞食から国王まで』という本の紹介がのっていました。著者は四〇歳を越した一人の看護婦でした。二〇年余の看護婦としての経験と彼女の優秀な資格は、ロンドン市・・・ 宮本百合子 「生きるための協力者」
・・・万葉集以前の古事記や日本書紀の中で、最初に描かれた女性であるイザナミノミコトは、古事記を編纂させた人は女帝であったにもかかわらず、それを書いた博士たちの儒教風な観念によって、男尊女卑の立場においてかかれている。 万葉集は、この歌集の出来・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
一 古典摂取の態度 この間、ある人に会ったら、こういう話が出た。どこかの宴会でその人が日蓮宗の坊さんに逢ったら、その坊さんが、この頃では私共も古事記なんかをよまないとものが云えないようになりました。五・・・ 宮本百合子 「文学上の復古的提唱に対して」
・・・これでは旅立ちの日を延ばさなくてはなるまいかと言って、女房と相談していると、そこへ小女が来て、「只今ご門の前へ乞食坊主がまいりまして、ご主人にお目にかかりたいと申しますがいかがいたしましょう」と言った。「ふん、坊主か」と言って閭はしばら・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・ わたくしのほしいのは、古事記のような、ごく古い国文の訳本でございます。それからやや降って物語類の中では、源氏物語の訳本が一番ほしゅうございます。 しかしそのわたくしのほしがる訳本というのは、ただ現代語に訳してあるだけで好いと申すの・・・ 森鴎外 「『新訳源氏物語』初版の序」
・・・ そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲んでいた。「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」 彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、「秋か?」と乞食は云った。 秋三は乞食から呼び捨てにさ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫