・・・たとえ学説や主義に囚われなくとも、資本主義の重圧に堪えることは、より以上に困難な時代であるからです。 いまこゝでは、資本家等の経営する職業雑誌が、大衆向きというスローガンを掲げることの誤謬であり、また、この時代に追従しなければならぬ作家・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、「お疲れさんで……」 温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡麻塩である。 こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・はてな、これは天幕の内ではない、何で俺は此様な処へ出て来たのかと身動をしてみると、足の痛さは骨に応えるほど! 何さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても重傷か擦創かと、傷所へ手を遣ってみれば、右も左もべッとりとした血。触れば益々痛・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・と、耕吉は答えるほかなかった。そして、それで想いだしたがといった風で上機嫌になって、「じつはね、この信玄袋では停車場へ送ってきた友だちと笑ったことさ。何しろ『富貴長命』と言うんだからね。人間の最上の理想物だと言うんだ。――君もこの信玄袋・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・そして自分の不如意や病気の苦しみに力強く堪えてゆくことのできる人間もあれば、そのいずれにも堪えることのできない人間もずいぶん多いにちがいない。しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることのできない人間をその行軍から除外・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・と甲は書籍を拾い上げて、何気なく答える。 乙は其を横目で見て、「まさか水力電気論の中には説明してあるまいよ。」「無いとも限らん。」「あるなら、その内捜して置いてくれ給え。」「よろしい。」 甲乙は無言で煙草を喫っている・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・何故ならこれに答えるためには、その場合の事情の十全な認識、行為のあらゆる結果の十全なる予測が必要であるが、かかる知見は神ならぬ人間には存しないからだ。かかる意味で、道徳上絶対に妥当な意志決定はありあたわぬ。しかしおよそ道徳とは何か、道徳的な・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・落ちる四人と堪える四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終いました。丁度午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆おとしに落下したのです。後の人は其処へ残ったけれども、見る見る自分たちの一行の半分は逆落しに・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・と問うた。驚くべき処世の修行鍛錬を積んだ者で無くては出ぬ語調だった。女は其の調子に惹かれて、それではまずいので、とは云兼ぬるという自意識に強く圧されていたが、思わず知らず「ハ、ハイ」と答えると同時に、忍び音では有るが激しく泣出し・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁して、その衣食住はほとんど完全の域に達している人びとでも、またかの律僧や禅家などのごとく、その養生のためには常人の堪えるあたわざる克己・禁欲・苦行・努力の生活をなす人びとでも、病なくして死ぬの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫