・・・火を背になし、沖の方を前にして立ち体をそらせ、両の拳もて腰をたたきたり。仰ぎ見る大ぞら、晴に晴れて、黒澄み、星河霜をつつみて、遠く伊豆の岬角に垂れたり。 身うち煖かくなりまさりゆき、ひじたる衣の裾も袖も乾きぬ。ああこの火、誰が燃やしつる・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・全世界に於て、プロレタリアートが、両手を合わすことをやめて、それを拳に握り締めだした。そういう頃だった。 M――鉱業株式会社のO鉱山にもストライキが勃発した。 その頃から、資本家は、労働者を、牛のように、「ボ」とか、「アセ」「ヒカエ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・無念骨髄に徹して歯を咬み拳を握る幾月日、互に義に集まる鉄石の心、固く結びてはかりごとを通じ力を合せ、時を得て風を巻き雲を起し、若君尚慶殿を守立てて、天翔くる竜の威を示さん存念、其企も既に熟して、其時もはや昨今に逼った。サ、かく大事を明かした・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・私は両方の拳を堅く握りしめ、それをうんと高く延ばし、大きなあくびを一つした。「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」 これは日ごろ私の胸を往ったり来たりする、あるすぐれた芸術家の言葉だ。あの子供らのよく遊びに行った・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その手を体の両側に、下へ向けてずっと伸ばしていよいよ下に落ち付いた処で、二つの円い、頭えている拳に固めた。そして小さく刻んだ、しっかりした足取で町を下ってライン河の方へ進んだ。不思議な威力に駆られて、人間の世の狭い処を離れて、滾々として流れ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・猿がやって来て片手を穴に突っ込んで米を握ると拳が穴につかえて抜けなくなる。逃げれば逃げられる係蹄に自分で一生懸命につかまって捕われるのを待つのである。 ごちそうに出した金米糖のつぼにお客様が手をさし込んだらどうしても抜けなくなったのでし・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・その珍しい自叙伝中から二、三小節を引用してあるのを見ると、例えば雪の降る光景などがあたかも見るように空間的に描かれている。あるいは秋の自然界の美しい色彩が盲人が書いたとは思われないように実感的に述べてある。しかし著者はこのような光景は固より・・・ 寺田寅彦 「鸚鵡のイズム」
・・・それが小さな、可愛らしい、夏夜の妖精の握り拳とでも云った恰好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこの拳は堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと眼を放していてやや薄暗くなりかけた頃に見ると、もうすべての花は一遍に開き切・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・もしや錯覚かと思って注意してはみたが、どうも老人の唄の小節の最初の強いアクセントと同時に頸を曲げる場合が著しく多い事だけは確かであるように思われた。してみると、この歌のリズムがなんらかの関係で、直接か間接か鴉の運動神経に作用しているらしく思・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
・・・ 拳を籠から引き出して、握った手を開けると、文鳥は静に掌の上にある。自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと座布団の上に卸した。そうして、烈しく手を鳴らした。 十六になる小女が、はいと云って敷居際に手を・・・ 夏目漱石 「文鳥」
出典:青空文庫