・・・胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の真正面を出したのは、苦虫と渾名の古物、但し人の好い漢である。「へい。」 とただ云ったばかり、素気なく口を引結んで、真直に立っている。「おお、源助か。」 その職員室真中の大卓子、向側の椅子に凭った先・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 往来に馴れて、幾度も蔦屋の客となって、心得顔をしたものは、お米さんの事を渾名して、むつの花、むつの花、と言いました。――色と言い、また雪の越路の雪ほどに、世に知られたと申す意味ではないので――これは後言であったのです。……不具だと言う・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・山男に生捕られて、ついにその児を孕むものあり、昏迷して里に出でずと云う。かくのごときは根子立の姉のみ。その面赤しといえども、その力大なりといえども、山男にて手を加えんとせんか、女が江戸児なら撲倒す、……御一笑あれ、国男の君。 物語の著者・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・が、内々で、浮島をかなで読むお爺さん――浮島爺さんという渾名のあることも、また主人が附加えた。「その居士が、いや、もし……と、莞爾々々と声を掛けて、……あれは珍らしい、その訳じゃ、茅野と申して、ここから宇佐美の方へ三里も山奥の谷間の村が・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・それがしの天才が思想の昏迷を来して一時あらぬ狂名を歌われたのもまた二葉亭の鉄槌に虐げられた結果であった。二葉亭に親近するものの多くは鉄槌の洗礼を受けて、精神的に路頭に迷うの浮浪人たらざるを得なかった。中には霊の飢餓を訴うるものがあっても、霊・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・「スッポンいう渾名や」 いつの間にか並んで歩きだしていた。家の近くまで来ると、紀代子は、「さいなら。今度踉けたら承知せえへんし」 まず成功だったといえるはずだのに、別れぎわの紀代子の命令的な調子にたたきつけられて、失敗だと思・・・ 織田作之助 「雨」
・・・夜店の二銭のドテ焼(豚の皮身を味噌で煮が好きで、ドテ焼さんと渾名がついていたくらいだ。 柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成先生などという諢名、それは年齢の相違と年寄じみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・という渾名を付けられたということである。これは、もとより片方しかなかった鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径のまわり道をして同じその鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さえ急かねば謀られる訳はないが、他人にして遣られぬ前・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 私は、それ以来、人間はこの現実の世界と、それから、もうひとつの睡眠の中の夢の世界と、二つの世界に於いて生活しているものであって、この二つの生活の体験の錯雑し、混迷しているところに、謂わば全人生とでもいったものがあるのではあるまいか、と・・・ 太宰治 「フォスフォレッスセンス」
出典:青空文庫