・・・たとえ昔のお房に再会するような事があっても、今の自分を十年の昔豪奢を尽した父の子とは誰れが思おう。やもりを見て昔を思い出すと運命のたよりなさという事を今更のように感じる。そしてせっかく風呂に入って軽くなった心を腐らしてしまうのであった。・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・その尺度に合せざる作家はことごとく落第の悲運に際会せざるを得ない。世間は学校の採点を信ずるごとく、評家を信ずるの極ついにその落第を当然と認定するに至るだろう。 ここにおいて評家の責任が起る。評家はまず世間と作家とに向って文学はいかなる者・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・へと参らざるべからざる不運に際会せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴を撰んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 僕ハ迚モ君ニ再会スルハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。 書キタイハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。 ・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
・・・ ―――――――――――――――――――― ピエエル・オオビュルナンとマドレエヌ・ジネストとは再会せずにしまった。この詭遇の影に傷けられた、大家先生の自負心の創痕はいつか癒えて、稀にではあるが先生が尊重の情をもっ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 二 アメリカ大統領選挙の結果が発表され、トルーマンの当選が知らされたと時をおなじくして、東京の市ヶ谷では、極東軍事裁判の最終段階の法廷が再開された。トルーマンが政策として、平和のための強国間の協力、アメリ・・・ 宮本百合子 「新しい潮」
・・・『婦人之友』の調査で、うどんがたべたいものの最下位にあるのも実際を映している。そんなに、この頃はうどん、うどんなのだが、そのうどんに絡んで人情の機微が動く姿も可笑しく悲しい。 或る小学校に三人の女先生がいた。ずっと仲よしで、今年は一・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
・・・ 吉田首相は、新内閣を組織し、議会を再開した。しかし一般施政方針について演説しない。そのことで紛糾している。施政方針を語らないままで、公務員法案は一気にとおそうとしている。そういう妙なことは何の基盤で出来るのだろうか。吉田は腹の出来・・・ 宮本百合子 「現代史の蝶つがい」
・・・をかきはじめたのは明治三十七年で、年譜をみると、「日露戦争に際会した。当時の出版界と著作者との関係に安じられないものがあって、自費出版を思い立ったのもこの年であった」とかかれている。『戦争文学』という雑誌が発刊されたり、小波の「軍国女気質」・・・ 宮本百合子 「作家と時代意識」
・・・昔、仏像の製作者が、先ず斎戒沐浴して鑿を執った、そのことの裡に潜む力は、水をかぶり、俗界と絶つ緊張の中に存するのではなく、左様にして後、心を満たし輝かす限りないポイズの裡にあるのではないだろうか。〔一九二一年十二月〕・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
出典:青空文庫