・・・ 青山の斎場へ行ったら、靄がまったく晴れて、葉のない桜のこずえにもう朝日がさしていた。下から見ると、その桜の枝が、ちょうど鉄網のように細く空をかがっている。僕たちはその下に敷いた新しいむしろの上を歩きながら、みんな、体をそらせて、「・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。十年前の僕も幸福ではなかった。しかし少くとも平和だった。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 又夏目先生の御葬式の時、青山斎場の門前の天幕に、受附を勤めし事ありしが、霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云うべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり・・・ 芥川竜之介 「森先生」
・・・単に余儀なくされたばかりでなく、それにたよることを最上無二の方法であるとさえ信じていた。学者も思想家も、労働者の先達であり、指導者であるとの誇らしげな無内容な態度から、多少の覚醒はしだしてきて、代弁者にすぎないとの自覚にまでは達しても、なお・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・母上は死に対して最上の態度を取る為めに、お前たちに最大の愛を遺すために、私を加減なしに理解する為めに、私は母上を病魔から救う為めに、自分に迫る運命を男らしく肩に担い上げるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・智慧の実を味わい終わった人であってみれば、人として最上の到達はヘダのほかにはないようだ。一五 長々とこんなことを言うのもおかしなものだ。自分も相対界の飯を喰っている人間であるから、この議論にはすぐアンチセシスが起こってくるこ・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ 時に、継母の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上常識的なものであった。「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」「いいえ、貴方。」 判然した優しい含声で、屹と留めた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖着の糸をきりきり・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・人間の最上の理想物だと言うんだ。――君もこの信玄袋を背負って帰るんだから、まあ幸福者だろうてんでね、ハハハ」 惣治にはおかしくもなかった。相変らずあんなことばかし言って、ふわふわしているのだろうという気がされて、袋から眼を反らした。その・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・またそれが客観的に最上であるにしたところで、どんな根拠でそうなのか、それは非常に深遠なことと思います。どうして人間の頭でそんなことがわかるものですか。――これがK君の口調でしたね。何よりもK君は自分の感じに頼り、その感じの由って来たる所を説・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・それでもって、決して普通道徳が最好最上のものだとは信じ得ない。ある部分は道理だとも思うが、ある部分は明らかに他人の死殻の中へ活きた人の血を盛ろうとする不法の所為だと思う。道理だと思う部分も、結局は半面の道理たるに過ぎないから、矛盾した他の半・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫