・・・マストの上には銀河がぎらぎらと凄いように冴えて、立体的な光の帯が船をはすかいに流れている。しばらく船室に引込んでいて再び甲板へ出ると、意外にもひどい雨が右舷から面も向けられないように吹き付けている。寒暖二様の空気と海水の相戦うこの辺の海上で・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ 寝ていると、眼は益々冴えてくるし、手や足の関節が、ボキボキと音がして、日向におっぽり放しの肥料桶みたいに、ガタガタにゆるんで、タガがはずれてしまうように感じられた。――起きて縄でもないてぇ、草履でもつくりてぇ、――そう思っても、孝行な・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・乳母の懐に抱かれて寝る大寒の夜な夜な、私は夜廻の拍子木の、如何に鋭く、如何に冴えて、寝静った家中に遠く、響き渡るのを聞いたであろう。ああ、夜ほど恐いもの、厭なものは無い。三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊・・・ 永井荷風 「狐」
・・・黄ばんだ葉が蒼い冴えた空から力なさ相に竹の梢をたよってはらはらと散る。竹はうるさげにさらさら身をゆする。落葉は止むなく竹の葉を滑ってこぼれて行く。澁い枳の実は霜の降る度に甘くなって、軈て四十雀のような果敢ない足に踏まれても落ちるようになる。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・かんかん竹の奥で冴えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子をはめる」「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 安岡の眼は冴えた。彼は、何を自分の顔の辺りに感じたかを考え始めた。 ――人の息だった。体温だった。だが、この部屋には深谷と自分とだけしかいない。深谷がおれの寝息をうかがうわけがない。万一、深谷がうかがったにしたところで、もしそうな・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ ところが烏の大尉は、眼が冴えて眠れませんでした。「おれはあした戦死するのだ。」大尉は呟やきながら、許嫁のいる杜の方にあたまを曲げました。 その昆布のような黒いなめらかな梢の中では、あの若い声のいい砲艦が、次から次といろいろな夢・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・ 見物の心に迫って来る俳優の技術は、只外部から磨をかけられた腕の冴えばかりではない。昔のように「型」できめて行くだけではなく、真個に我々の中の生活を、内部から立体的に描写して行く場合には、先ず、役者が演じようとする世界に対して持っている・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・緊迫した石垣の冷たさが籠み冴えて透った。暗い狸穴の街路は静な登り坂になっていて、ひびき返る靴音だけ聞きつつ梶は、先日から驚かされた頂点は今夜だったと思った。そして、栖方の云うことを嘘として退けてしまうには、あまりに無力な自分を感じてさみしか・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その黄色や褐色や紅色が、いかにも冴えない、いやな色で、義理にも美しいとはいえない。何となく濁っている。爽やかさが少しもなく、むしろ不健康を印象する色である。秋らしい澄んだ気持ちは少しも味わうことができない。あとに取り残された常緑樹の緑色は、・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫