・・・ポケットから燐寸を出して洋灯を点すと、「まあ、恐れ入ります」と藤さんは坐る。灯火に見れば、油絵のような艶かな人である。顔を少し赤らめている。「あしが一番あん」と章坊が着物を引っ抱えて飛びだすと、入れ違いに小母さんがはいってきて、・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ その時、矢庭に夫は、下駄を突っかけて外に飛び出ようとしました。「おっと、そいつあいけない」 男のひとは、その夫の片腕をとらえ、二人は瞬時もみ合いました。「放せ! 刺すぞ」 夫の右手にジャックナイフが光っていました。そのナイ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・私は、花を指差す。「ああ、梅。」ろくに見もせず、相槌を打つ。「やっぱり梅は、紅梅よりもこんな白梅のほうがいいようですね。」「いいものだ。」すたすた行き過ぎようとなさる。私は追いかけて、「先生、花はおきらいですか。」「たい・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのような、ひねこびた熱い強烈な愛情をずっと奥底に感じた。ちがう。ちがうと首をふったが、その、冷く装うては・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・玩具屋の前に立ちて、あれもいや、これもいや、それでは何がいいのだと問われて、空のお月様を指差す子供と相通うところあり。大慾は無慾にさも似たり。 五、我、ことごとに後悔す。天魔に魅いられたる者の如し。きっと後悔すると知りながら、ふらりと踏・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・つぎに私は、友情と金銭の相互関係について、つぎに私は師弟の挨拶について、つぎに私は兵隊について、いくらでも言えるのであるが、いますぐ牢へいれられるのはやはりいやであるからこの辺で止す。つまり私には良心がないということを言いたいのである。はじ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・うぐいすの鳴くころになると、山野は緑におおわれ、いろいろの木の実、草の実がみのり、肌を刺す寒い風も吹かなくなるということを教えられたに相違ない。うぐいすの声がきらいな人などありようはない。 星野温泉の宿の池に毎朝水鶏が来て鳴く。こぶし大・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・それからまた胴乱と云って桐の木を刳り抜いて印籠形にした煙草入れを竹の煙管筒にぶら下げたのを腰に差すことが学生間に流行っていて、喧嘩好きの海南健児の中にはそれを一つの攻防の武器と心得ていたのもあったらしい。とにかくその胴乱も買ってもらって嬉し・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・そういう場合において、学者は現象の起こっている最中に電光石火の早わざで現象の急所急所に鋭利な観察力の腰刀でとどめを刺す必要がある。そうすれば戦いのすんだあとで、ゆるゆる敵を料理して肉でも胆でも食いたければ食うことができる。 実験的科学で・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
出典:青空文庫