・・・で思い出すのはベルリンに住んではじめての聖霊降臨祭の日に近所の家々の入口の軒に白樺の折枝を挿すのを見て、不思議なことだと思って二、三の人に聞いてみたが、どうした由来によるものか分らなかった。ただ何となく軒端に菖蒲を葺いた郷国の古俗を想い浮べ・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・これは、設計では挿すことになっていたのを、つい挿すのを忘れたのか、手を省いて略したのか、それともいったん挿してあったのを盗人か悪戯な子供が抜き去ったか、いずれかであろうと思われた。このボルトが差してあったら多分この屋根は倒れないですんだかも・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・ その頃では神棚の燈明を点すのにマッチは汚れがあるというのでわざわざ燧で火を切り出し、先ずホクチに点火しておいてさらに附け木を燃やしその焔を燈心に移すのであった。燧の鉄と石の触れあう音、迸る火花、ホクチの燃えるかすかな囁き、附け木の燃え・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・『註文帳』は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋の店先とその親爺・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・年年秋月与二春花一 〔年年 秋の月と春の花と行楽何知鬢欲レ華 行楽して何ぞ知らん鬢華らんと欲するを隔レ水唯開川口店 水を隔てて唯だ開く川口の店背レ空鎖葛西家 を背にして空しく鎖す葛西の家紅裙翠黛人終老 紅・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・と語り出そうとする時、蚊遣火が消えて、暗きに潜めるがつと出でて頸筋にあたりをちくと刺す。「灰が湿っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋をとると、赤い絹糸で括りつけた蚊遣灰が燻りながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・耳の裏には颯と音がして熱き血を注す。アーサーは知らぬ顔である。「あの袖の主こそ美しからん。……」「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。「白き挿毛に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・蔦鎖す古き窓より洩るる梭の音の、絶間なき振子の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・とのみ髪に挿す花の色を顫わす。「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの槍を受け損じてか、鎧の胴を二寸下りて、左の股に創を負う……」「深き創か」と女は片唾を呑んで、懸念の眼をみはる。「鞍に堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と婆さんずばと図星を刺す。寒い刃が闇に閃めいてひやりと胸打を喰わせられたような心持がする。「それは心配して来たに相違ないさ」「それ御覧遊ばせ、やっぱり虫が知らせるので御座います」「婆さん虫が知らせるなんて事が本当にあるものかな、・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫